2016年9月25日日曜日

お久しぶりです、の苦しさ。

こんばんは。

今日はお友だちとディズニー・オン・クラシック、聴きに行っていました。

毎年、このコンサートを同じお友だちと観に行くのが恒例となっていまして、今年で6年目くらいでしょうか?


こちらのブログでの更新が、少しお久しぶりとなりました。

声のこと、体調不良のことを主にのせているので、声の調子がとても悪かったり、何か強く思ったり考え事があった日には、日記を綴るようにしています。

しばらく空いていたということは、あまり声のことで深くは悩んでいなかったということ。


けれど、今日はお久しぶりに喉の調子が不調すぎましたので、こうして文章をしたためております。


お仕事の時は、今日はあまり声を出していなかったので、不調を感じる程ではなかったのですが、お仕事を終え、コンサート会場へと向かった際に、受付の方と言葉を交わす機会がありました。

その際、声を発した途端に、「あ、声が全然出ない。」、即座に感じました。


受付のかたも、少し、私の声を聞き取りづらそうにしていました。
(顔を近付けたり、耳に装着していたモニターを外していました。)

会場でお友だちと会話をしていてもやはり、誰が聞いても声が出ていないと感じるようで、「今日は喋りづらそうだね…」と。
(お友だちは、私の発声障害のこと知っています^^)


今日は久しぶりに、声を出すのがすごく苦しかったなぁ、、


絞り出して出していました。

喉の絞まりを常に感じながら。



一体、、何故なのでしょうね。


「過緊張性発声障害」、初対面の人であったり苦手な人と話をするときに緊張をして、声が出づらくなってしまう、というのならわかるのですが、私の場合、どちらかと言うと真逆なもので、親しい人、特に「喋りたい!」と思うときこそ、声が全然思うように出てくれません。


これって、緊張と関係あるのでしょうか?、、


声が出なくなって早一年。


まったく良くもならず、改善も出来ず。


心だけが不安に思ったり、頑張ろうと前向きになったり。


“気持ち”が一番に、大事ってことなのでしょうか?



『気の持ちよう』とも言いますが、一度壊れてしまった神経や構築されてしまった自分自身、気持ちだけで解決出来たらどれだけ楽かって、思ってもみてしまいます。



気持ちよりももっと大切なものって、何なのでしょうか。

2016年9月12日月曜日

レコーディングで、ふと。

こんばんは。

先程まで、ボイストレーニングの学校にて、オリジナル曲のレコーディングをしていました。

レコーディング最中、ふと思ったのですが、曲の中でうまく歌えない部分が、何度歌っても思い通りに歌えない。

一度、失敗をしたり、変な歌い方になってしまうと、次歌うときも同じようになってしまう。

『次は良く歌えるかな、失敗しないかな。』と、心配をしたり不安になってしまう。

そうして、どんどん負の底に潜り込んでゆくように、負のループから逃げ出せられない。。


そのようなこと、もしかしたら、、


『昨日、電車で具合悪くなってしまった。今日は大丈夫かな、、』の不安にとても似ている、と。

何となく、繋がりがあるように感じました。


―――


それとは別に、今日は、自分の“良い歌いかた(歌うときでの、声の出し方)”を習得したようでした。


普段言葉を口にしている以上に、自分の口から発せられる“声、音”に意識をする。


何だか、とてもいい学びだったように感じます。

今日の学びが、今後の音楽活動にも、普段のお喋りにも良く動いてくれますように。。



あ、



レコーディングもそこそこ、うまくゆきましたよ(^^)



何とか、今まで行き詰まっていたものから、大きく脱せられたようでした(^^)v


また次回も、頑張ろうと思います。♪

2016年9月7日水曜日

リハビリ4日目。そして。


こんばんは。

先週、ボイスクリニックにて、4回目のリハビリ日でした。

まず、声を出すことに関してあまり何も気にしないで声を出そうと心掛けをし、実際声を出した後に、声が出なかったことに関して悲しい思いや悔しい思いを、あまり感じなくなったことを、先生にお伝えをしたら、「それはとてもいいことだね^^」と。

「このままでいきましょう。」と。


「声が出ないことに、慣れてもきたのかもしれないね。」とも。



思えば、声が思うように出なくなって一年経ちました。


そんな声と、そんな自分と、長く付き合っているうちに、徐々に慣れてきたのかも、しれないですね。



それともう一つ、リハビリでお話してもらったことは、『自分で思っていることを口に出しきれないこと』について。


もしこの言葉を言って、「その人が傷付いてしまったらどうしよう。」「嫌な気分にさせてしまったらどうしよう。」
相手の反応を見て、「自分が傷付いたらどうしよう。」


それだったら、「言わずに自分のなかで、溜め込んでゆけばいいや。」


そんな日々の溜め込みから、もしかしたら喉の詰まりも生まれてきているのかも、しれません。


「相手がどう思うか、決めてしまっているのは全部“自分”だよ。」と、先生に言われました。

「言いたいことをあなたが言ったとしても、その人にとっては、特に何とも思わないことかもしれない。」


「物事の見方は何パターンもあるからね。」と。



確かに、そうかもしれないです。

自分が、『きっとこうだろう、こう思うだろう。』と決めつけをしてしまって、今まではその先(言葉を口にするこも)まで進めなかった。

その先の結果は、伝えてみないとどんな反応が返ってくるか分からない。


もし、言葉を伝えて相手に不快感を与えてしまっても、「やはり、そうだった。」という《結果》が分かる。


《結果》が分かる、ということが、少なからず、自分の憶測だけで行動を抑制してしまうことよりも、「行動の幅が広がる、視点が広がる」ということでした。


なので、少しずつでも、“思っていることを口にしてみること。”


これが、次のリハビリの新しい《ステップ》です。



ここに関しては、今まで培ってきた自分を壊してゆく作業のようなものなので、なかなか変えてゆくことは簡単にはいかなそうですが、良き方向へと向かわせてゆくためにも、頑張ってゆきたいですね。



―――


話はそれますが、一昨日の朝、再び電車のなかで具合が悪くなりました。


朝起きたときから、少し調子がおかしいかなと思っていましたが、その調子に引っ張られないよう、意識をそらそうと心掛けましたが、駄目でした。


満員電車のなか、立っていられなくなり、しゃがみこんでしまいました。

意識がなくなって、倒れるよりは良いだろうと。


周囲のひとは、私の様子など気にもせずに立ったままでした。


“冷たいな。”なんて、そんな周囲の態度に打ちのめされ。



具合の悪くなるときは、立っているよりも座っているよりも、膝を抱えるようにうずくまっているのが、一番楽な姿勢。


たった一駅も我慢できずしゃがみ込みましたが、お陰で、数分かけて、少しは落ち着きました。


めまい、胸の不快感、喉の息苦しさ、発汗、大きな不安。


何度も何度も、電車のなかや外出先で具合の悪くなるたびに、こんな辛い思いはもう二度と嫌だと、強く願うのですが、どうやら近くは、叶うことないみたいです。


ここ一、二年、悪化してゆくばかりの気がします。


お知り合いのかたから、アドバイスいただいて、具合が悪くなったときは“呼吸”に集中をしようと、何度も心がけをしてみても、あまりに自分のことをコントロール出来ずになってしまっていて、まったく上手に呼吸が出来ず、具合が100%の確率で悪くなってしまう自分には、本当嫌気がさします。


一昨日は、電車のあとも遅れてはならないと必死にお仕事場へと向かい、お仕事をしていましたが、気持ちが全然落ち着かず、吐き気や呼吸の乱れ、息苦しさがずっと苦しく続いていて、午前中、まるで、自分が自分でないようでした。

あまりに、この地に立っていることに必死でした。


電車で具合が悪くなったとしても、大体はお仕事場着いてしまえば、あとは段々と落ち着いて回復してゆくことが当たり前でしたが、今回はそうならずにいて、「どうしたのだろう。」と大きく疑問を抱きました。


単に体調が悪すぎたためか、具合の悪くなることに関して、悪化の状態が増してきてしまっているのか。。


リハビリ日のときに、『この間、北海道に旅行へ出掛ける際、何度も移動中に具合を悪くし、これまでにも電車などで倒れそうになっている。』、ということを先生に相談してみたところ、
“パニック障害”のようなものもあるのかもしれないね、と。


声のことも、「少なからず、関係しているかもしれないね。」と、おっしゃっていました。

私も、そんな気がします。



「良かったら、提携している《心療内科》も紹介出来るから。」とのこと、まさにその何日かあとに、今回のように電車で具合が悪くなってしまい、自分自身のコントロールが段々と効かなくなっているのではないかと不安に思ったので、今度、“紹介状”を出してもらおうかなと思います。


さすがに、このままでは本当に、人のいるなかでは生活出来なくなってしまうと、大きな不安にかられました。



なかなか、難しいものですね。

人のいるなかで、生活してゆくこと。


――――

自分と上手く、関わってゆくこと。