こんばんは。
この間、ライブで共演した音楽仲間のかたと、神楽坂でご飯してきました。
積もる話もあり、4時間くらいお喋りしていました。
(わたしはどちらかというと、話すよりも聞くほうが多いかもしれません。)
音楽のこと、お仕事のこと、そして、障害のこと。
音楽活動しているSNSのほうのプロフィールなどに記してある“発声障害”を気にして、お話聞いてくれました。
音楽仲間のかたも、昔経験した、ご自身の不調のことを話してくださり、気持ちのゆとりの面で、やはり身体は悲鳴をあげてしまうものだなと、改めて知ることが出来ました。
そして、それぞれに、悩みや不調など、あるものなのだな、と。
そんなことも感じつつ、盛り上がる話もしたりして、そろそろ帰る時間かなというところで、急に声がガサガサガサ。!
驚。
「あれ?」と、感じてしまうくらい、明らかな変化。
それまでも、確かに声は苦しかったり、かさついてはいましたが、それは普段通りの出づらい声。
それが更に一段、いや、二段くらいもパワーアップしたかのような、掠れ具合。
ここまで出なくなってしまったことは、今までになかったので、自分でもとても、驚いてしまいました。
(音楽仲間のかたは、特に、気になっていなかったようです。)
恐らく、話す量が多かったことと、声を少し張って、話をしてしまったことが大きな原因かな、と思います。
それと、周りに人がいたので、“人の存在”を常に感じながら、食事の時間を過ごしていたことと、“お友だちとご飯”という、やや特別な出来事ということに、少し緊張してしまったのかな、と。
何度か、会話中、周りの人の声が妙に耳に入り込んできて、会話に集中出来ないときがありました。
音がたくさん頭のなかに入ってきて、下手したらパニック起こしてしまうくらいの感覚。
必死に、周りをシャットダウンして、会話に戻ろうとするけれど、それまで、1、2分くらいはかかるのかな。
恐らく、周りの音が気になってしまうから、余計に自分の声も、張り上げてしまうのでしょうね。
自分の声の限度を、越えてしまうというか。
楽しい時間ではあるけれど、緊張しながら楽しんでいるという感覚。
今回のお食事に限らず、日頃から。
自分以外の誰かがいたら、そこはもう、わたしにとっては緊張のある空間。
知っている人でも、知らない人でも、親しい人でも、家族でも。
どうしたらもっと、楽な気持ちでいられるのでしょうか。
どうしてこんなにも、周りを気にしてしまうのでしょうか。
それでも、「楽しい」と感じられたこの日は、自分にとって良かった日なのではないかと思います。
今まで感じてきたキャパオーバーを、更に越えてしまうことがある&越えてしまうと、こんな声になる、ということをシュウトク(←この漢字、いつも迷うのです。)した大切な日でも、ありました。
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P.S.写真は、神楽坂にある赤城神社。
「磐筒雄命」(いわつつおのみこと)さま。
厄難消除、学問芸術の神さまだそうで。
どうぞ、今のわたしを、宜しくお願い致します。
自分で変えてゆくばかりは、とてもパワーがいるもの。
時には涙流して、強く激しく、すがりたくもなります。
そういう自分と、向き合うタイミングも、恐らく大切なのでしょうね。