こんばんは。
約2ヶ月ぶりのボイスクリニック、今日はリハビリ日でした。
2ヶ月の間で、《いっとき声が出やすくなった→この間の満員電車での出来事でまた声が不調になった》、ことをお伝えしました。
話をしていて、担当の言語聴覚士さんが「声のことも、パニックのようなものと関係しているのかもしれないね。」という話になり、ボイスクリニックが提携している“心療内科”のある病院を紹介していただくことになりました。
私も、そのほうが良いのだろうな、と。
不調になる頻度が増えてきてしまったこと、具合が悪くなったり、過呼吸の度合いが大きくなってしまったこと、自分の意思で、自分の身体をコントロールさせるのが難しくなってきたこと。
早く診察を受けて、症状の病名が分かるといいです。
来月には、“心療内科”、行けるかなと思います。
ーーー
P.S.帰り道、電車の乗り換えの途中に、お友だちがアルバイトをしている飲食店を通ることに。
「いるといいな。」と思い、お店の前を通ってみると、働いていました(^-^)
名前を呼んで声をかけて、二言三言お話をしました。
なんだかそれだけですが、お友だちと久しぶりに会えたことが嬉しかったので(*^^*)
それでは。
2016年10月25日火曜日
2016年10月23日日曜日
緊張。
こんにちは。
連続投稿です。
今日はお仕事をしているのですが、同じ現場の方々にレアチーズケーキをお昼前にプレゼントしました。
作ったはいいものの、人に何か特別なことをしたり、何かをあげるとき、妙に緊張してしまう癖があります。
「やりたくない…」と逃げたくなるくらいの緊張感です。
何と言って渡そう、どんな反応されるかな、ちゃんと喜んでもらえるかな、どのタイミングで渡そう、今渡したら邪魔かな、今はいらないかな、時じゃないかな、なんて、
色々考えていたら、心臓バクバクしてきて。
本当は朝お渡しする予定が、『今日は立ち会いのかたもいるし、早めに作業開始したほうが良いか。。』と、考えに考え抜いて、朝はやめるという形に。
お昼前もけれど実は、お二人が喫煙所に行ってしまって渡すタイミングを逃してしまったので、『か、帰りにしよう、、』と最終手段まで逃れることになりかけたのですが、
ちょうどお二人が控え室に戻ってくる姿が見えたので、勢いでお渡ししました!
勢いがないと私、ぐずぐずと考えが頭のなかに渦巻いていて、なかなか行動出来ないですねぇ、、
“味、大丈夫かな。”、“チーズ食べられるかな?”、“チーズ大丈夫でも、レアチーズだと苦手な人といたりするしな、、”
不安な気持ちで、胸がいっぱいではち切れんばかりでしたが笑、食べていただいて、「オイシイ!」と言ってもらえて、ようやく、心落ち着きました。
そして、嬉しかったです。
良かった。
喜んでもらえて、私も嬉しいなぁ。。
そんな“緊張”する場、結構あったりします。
他の人にはどうってことのない、「え、なんでここで?」と思われてしまうかもしれませんが。
私にとっての電車は言わずもがな。
それと、上で書いたように、人に何かをあげるとき、特別なことをするとき、自分から誰かを、ご飯や遊びなど誘うとき、何か意見や希望を言おうと言葉を発する直前(何度も言葉選びをしたり、何て言おうか考えたり、タイミングをかなりうかがってしまいます。)、そして、待ち合わせをするとき。
どれも、初めての人に対してでなくても、知っている人に対しても緊張してしまいます。
というより、知っているかたに対してのほうが、何故か何倍も緊張をしてしまう。。
不思議です。
自分が相手のかたにどう見られるか、どう思われるか必要以上に、気にしてしまっているのかなぁ、、
なかなか、難しい性質をしています、自分。
切り取りの世界。
こんにちは。
一昨日は、『考えが少し変わりそうな出来事があった。』と最後に書き、今回の日記に託しました。
その、《出来事》について。
出来事といっても、そんなに一大事件のようなしっかりとした事柄ではなく、ほんのちょっとしたことなのです。
私は昔から、人に見られるということが苦手でした。実際、相手は私のことを見ていなくても、何だか顔がこちらに向いて見られている気にもなる。
電車のなか、すれ違う人々、信号待ちの向かい側の人、、
そのたびに顔や視線をそむけ、時には勝手に不機嫌にもなっていました。
一昨日、お仕事をしていて外に立っているときのことでした。
反対側の通路を歩いているかたがこちらを見ているようで、「何だか嫌だな。」と感じていたのですが、実際、本当に見ていたようで、私に声をかけてこられました。
「突然ごめんね!女の子で珍しいね、このお仕事(男性がメインのお仕事なのです。)。あなたもあれやるの??」
とても気さくに、話しかけて下さいました。
そして、「頑張ってね、急に話しかけちゃってごめんね!」と、片腕を上げ、私に手を振って帰られました。
そして、思ったこと。
“こんなフランクに接して下さったのに、初め、『見られているから』と嫌悪感抱いてしまった自分、ダメだな。”と。
相手のかたに申し訳ない。。
もし、話しかけてもらうことがなければ、その方は私にとって嫌な印象で終わってしまいました。
「第一印象と、実際の人柄とのギャップ」のようなものでしょうか。
見られているその一瞬の《切り取り》だけで、相手や物事の印象を決めてしまうのは、それは私の自分勝手な行動だなと、思いました。
*
その日の帰りも、自宅近くのドラッグストアで化粧品を見ていて、そばにアドバイザーの店員さんがいらっしゃって、何となく『その場に居づらいな…』と感じてしまったのですが、「そちら、新商品なんです(^^)」とお声かけをして下さった声は、とても親切で愛想のあるものでした。
「店員さんが私のそばにいる」、その《切り取り》。
けれどその先のストーリーを覗いてみたら、それは温かみや笑顔も交えるもので。
なので、
『自分の勝手な印象だけで、周りの人を嫌に思ってしまうのはやめよう。』と、思いました。
その先のストーリーも、覗いてみようと。
もし発展がなくて覗けなくても、思い描いてみることで、ほっこりする続きがあるかもしれない。
そう思うと、常に自分をまとってしまう重たい鎧から、少しは解放されるのではないか。。
*
翌日も、お仕事で外に立っていたところ、女性の年配のかたが私を見て、「偉いね、頑張ってね^^」と。
《見られている→応援して下さる》
*
目の前に現れた駐禁取り締まりのかたが車を見たついでに、そばにあった金木犀の木の枝を自分の顔に寄せ付け、お花の香りを嗅いでいました。
《駐禁のひと→ほっこりする光景》
*
電車に杖をついたかたが現れ、目の前に座っていた女性が席を譲ろうと。
けれど、杖を持っていたかたは「いいのいいの、すぐだから。大丈夫だから。」とのお言葉を。
そして、次の駅。
乗客が乗り込んでくる。
《乗り込んできた乗客が杖のかたに気がつく→席に座っている人たちは席も譲らず、“冷たい”のではないかと思う→実はそうではない》
***
よく、芸能界だとかの情報や言葉の発信も、ニュースや書き込みの人たちに“オイシイ”部分だけ《切り取られ》て、「こういう意味合いで言ったのでないのに。」や、「この言葉の前にはこういうお話もしていたんですよ。」というようなことを聞いたりするけれど、こういうのも《切り取り》の世界なのでしょう。
切り取られた部分だけ、自分に取り入れるか、
切り取られた部分に何を見て、何を繋ぎ合わせるのか、それが大事なのかなと、気づいた出来事たちでした。
なんでしょう。
心弱っていたり、不安定なときって、考えさせられたり気づいたりすることが多いです。
だから、
弱ることも好きなのでしょうか。
一昨日は、『考えが少し変わりそうな出来事があった。』と最後に書き、今回の日記に託しました。
その、《出来事》について。
出来事といっても、そんなに一大事件のようなしっかりとした事柄ではなく、ほんのちょっとしたことなのです。
私は昔から、人に見られるということが苦手でした。実際、相手は私のことを見ていなくても、何だか顔がこちらに向いて見られている気にもなる。
電車のなか、すれ違う人々、信号待ちの向かい側の人、、
そのたびに顔や視線をそむけ、時には勝手に不機嫌にもなっていました。
一昨日、お仕事をしていて外に立っているときのことでした。
反対側の通路を歩いているかたがこちらを見ているようで、「何だか嫌だな。」と感じていたのですが、実際、本当に見ていたようで、私に声をかけてこられました。
「突然ごめんね!女の子で珍しいね、このお仕事(男性がメインのお仕事なのです。)。あなたもあれやるの??」
とても気さくに、話しかけて下さいました。
そして、「頑張ってね、急に話しかけちゃってごめんね!」と、片腕を上げ、私に手を振って帰られました。
そして、思ったこと。
“こんなフランクに接して下さったのに、初め、『見られているから』と嫌悪感抱いてしまった自分、ダメだな。”と。
相手のかたに申し訳ない。。
もし、話しかけてもらうことがなければ、その方は私にとって嫌な印象で終わってしまいました。
「第一印象と、実際の人柄とのギャップ」のようなものでしょうか。
見られているその一瞬の《切り取り》だけで、相手や物事の印象を決めてしまうのは、それは私の自分勝手な行動だなと、思いました。
*
その日の帰りも、自宅近くのドラッグストアで化粧品を見ていて、そばにアドバイザーの店員さんがいらっしゃって、何となく『その場に居づらいな…』と感じてしまったのですが、「そちら、新商品なんです(^^)」とお声かけをして下さった声は、とても親切で愛想のあるものでした。
「店員さんが私のそばにいる」、その《切り取り》。
けれどその先のストーリーを覗いてみたら、それは温かみや笑顔も交えるもので。
なので、
『自分の勝手な印象だけで、周りの人を嫌に思ってしまうのはやめよう。』と、思いました。
その先のストーリーも、覗いてみようと。
もし発展がなくて覗けなくても、思い描いてみることで、ほっこりする続きがあるかもしれない。
そう思うと、常に自分をまとってしまう重たい鎧から、少しは解放されるのではないか。。
*
翌日も、お仕事で外に立っていたところ、女性の年配のかたが私を見て、「偉いね、頑張ってね^^」と。
《見られている→応援して下さる》
*
目の前に現れた駐禁取り締まりのかたが車を見たついでに、そばにあった金木犀の木の枝を自分の顔に寄せ付け、お花の香りを嗅いでいました。
《駐禁のひと→ほっこりする光景》
*
電車に杖をついたかたが現れ、目の前に座っていた女性が席を譲ろうと。
けれど、杖を持っていたかたは「いいのいいの、すぐだから。大丈夫だから。」とのお言葉を。
そして、次の駅。
乗客が乗り込んでくる。
《乗り込んできた乗客が杖のかたに気がつく→席に座っている人たちは席も譲らず、“冷たい”のではないかと思う→実はそうではない》
***
よく、芸能界だとかの情報や言葉の発信も、ニュースや書き込みの人たちに“オイシイ”部分だけ《切り取られ》て、「こういう意味合いで言ったのでないのに。」や、「この言葉の前にはこういうお話もしていたんですよ。」というようなことを聞いたりするけれど、こういうのも《切り取り》の世界なのでしょう。
切り取られた部分だけ、自分に取り入れるか、
切り取られた部分に何を見て、何を繋ぎ合わせるのか、それが大事なのかなと、気づいた出来事たちでした。
なんでしょう。
心弱っていたり、不安定なときって、考えさせられたり気づいたりすることが多いです。
だから、
弱ることも好きなのでしょうか。
2016年10月21日金曜日
心配をかけて。
こんばんは。
ひとつ前の日記で書かせてもらった、電車での出来事。
とても精神的にもまいってしまい。
私はマイナスの感情になるとつい、Twitterで思わず負の文章を綴ってしまいがち。
誰かが見ていると分かっていても、ここに綴るということは、“伝えたい”、“知ってもらいたい”という思いが強いからなのでしょうか。
大きな心配をかけさせてしまうことは、「本当にすみません。。」と思うのですが、私みたいに、直接誰かに言葉や表情、動きで辛さを表現することが苦手な人にとって、“文字(文章)”というものは喋っている言葉と同じくらい生きているもの、なのではないかなぁと。
色や熱がこもっているもの、なのです。
私は、声を出して思いや自分を出すより、文章にする方がとても楽で、より思っていることを出せるというか、ナチュラルに自分が出てくる、そんな感じでしょうか。
ーーー
案の定、私のマイナスツイートを見て、家族が特に心配をしてくれて、父からメッセージもらったり、母や妹は次の日、わたしのお家のほうまで来てくれました。
「限界を越えた。」と綴ってしまったからでしょうか。
温かいです。
一緒に外で、夜ご飯を食べました。
美味しかったです。
家族といると、私が子供だった頃から今に向かっての成り立ちを、垣間見るような気がします。
小さい頃は、『無表情だった。』と祖母に心配されていたそうです。
確かに、“我”がいなかったのかも、我を持っていなかったかもしれません。
好きなアーティストに出会ったり、音楽をするようになったり、恋愛をしてきたり、一人暮らしを始めたり。
そうしてようやく、《自分》が生まれてきたような。
けれど、人と接するようになり《自分》が消えてしまうことも増えました。
言いたいことを言えない、自分をうまく出せない、人の目が気になる、相手のことを気にしてしまう、、
《自分》は生まれたけれど、《人といるときの自分》は上手に育っていない、感じ?、、
こういうのって、慣れ、なのでしょうか?
とはまた、違うものかなぁ。
でも、少しこれが改善されそうな出来事と言いますか、観点が変わりそうなこと(案外小さなことです。)があったので、それはまた、次に綴りますね。
それでは。
2016年10月19日水曜日
魔の5,6駅。
こんにちは。
今日は暖かです。
昨日もいいお天気でした。
そんな昨日の朝の通勤電車、今までで最も悲惨でした。
そのお話を。
私が乗っている電車は、元から乗車率の高い路線なのですが、この日は遅延していたということもあり、更に乗車率が増しに増していて。
初めは『すごい人だ~。』と思って乗っていたのですが、途中からあまりのギュウギュウさに、急に緊張スイッチが入ってしまったみたいで。
『あ、これはまずいかも。具合悪くなるパターンだ。』
気を失う寸前の意識のなか、けれど周りの人に押されに押され、窓に手を突っ張りながら、姿勢を保つのに必死。
具合が悪いのに、力を振り絞るなんて、最悪の状態。。
『もうこれは完全にアウトだ…。』と、あまりに耐えられそうになかったので、電車を降りようとしたのですが、あまりの満員具合に一切、身動きもとれず。。
“降りられない、、!”
そうと分かった瞬間、一気に‘恐怖度’が増し、汗も止まらず、今にも気を失ってしまうのではないかという、ギリギリの状態。
目をつむり、必死に「大丈夫大丈夫。」と心のなかで自分に言い聞かせ、それでも極度の怖さと緊張感でいっぱいで、今思えば、ほぼ意識失った状態で立っていました。
たった一本の神経や線で、《満員電車の中》という現実世界と繋がっていると言いますか、それくらいの気が遠くにいってしまっている感じ。
こうなるともう、一層意識を失ってしまうくらいのほうが、よっぽど楽です。
そう出来ないのは、周りの目や後先のことを、考えてしまうからでしょうか。
魔の5,6駅、15分ほどでした。
毎度毎度具合が悪くなるたびに、『こんなの御免だ。』と強く思うのですが、さすがに昨日の状態は、いちばん酷く、もう限界を越えてしまったなと、感じました。
喉の調子も最近少し良くなってきたかな、というところでしたが、一気にまた悪い状態に復活。
喉の強ばりが激しく、呼吸も深く出来ずに浅くなり、全身の力も入らなくなってしまったので、電車から降りてからはふらふらと歩き、“早くひとりになりたい。一人の空間に入りたい。”と願い、お仕事先に着いてからは、お仕事着に着替える余裕もなく、控えに着くや否や、すぐに私服のまましゃがみこみました。
ようやく安心、の場かなあ。
けれど、電車での出来事を思い出し、緊張状態も続いたままだったので、段々と呼吸が乱れ、過呼吸に。
普段なら、数分で落ち着くものの、この日は自分でセーブが効かなくて、20分くらい過呼吸がおさまりませんでした。
こんなに長かったの初めてです。
お仕事先のかたが控えに来られたのをきっかけに、おさまったという。
私の様子がおかしいことに驚き、そして戸惑わせてしまいました。
無理矢理なのか、知っている人という安心感なのか、“抑えよう”という意思で、過呼吸は徐々におさまりました。
そこからは、何となく本調子ではないものの、普通にお仕事して、この日いちにちを終えました。
ーーー
段々と、緊張してしまう場所やタイミングが増えてきたり、頻度が多くなってきている気がします。
このままでは自分はどうなってしまうのかと、不安な気持ちも多いですが、その不安な思いが、悪い状態を引き連れてしまっていると思うので、あまり考え過ぎず、考えプラスにプラスに進んでゆきたいです。
けれど、
さすがに昨日の状態は、自分で自分を守ること、出来なかったなぁ。
本当に、神経だとかって、周りの攻撃でブチブチっと壊されてしまうことって、あるのだろうなと思わされました。
自分が壊しているのでなく、自分の把握&理解できている範囲外の出来事&攻撃で。
ーーー
頑張って、生きてゆかないと。。
今日は暖かです。
昨日もいいお天気でした。
そんな昨日の朝の通勤電車、今までで最も悲惨でした。
そのお話を。
私が乗っている電車は、元から乗車率の高い路線なのですが、この日は遅延していたということもあり、更に乗車率が増しに増していて。
初めは『すごい人だ~。』と思って乗っていたのですが、途中からあまりのギュウギュウさに、急に緊張スイッチが入ってしまったみたいで。
『あ、これはまずいかも。具合悪くなるパターンだ。』
気を失う寸前の意識のなか、けれど周りの人に押されに押され、窓に手を突っ張りながら、姿勢を保つのに必死。
具合が悪いのに、力を振り絞るなんて、最悪の状態。。
『もうこれは完全にアウトだ…。』と、あまりに耐えられそうになかったので、電車を降りようとしたのですが、あまりの満員具合に一切、身動きもとれず。。
“降りられない、、!”
そうと分かった瞬間、一気に‘恐怖度’が増し、汗も止まらず、今にも気を失ってしまうのではないかという、ギリギリの状態。
目をつむり、必死に「大丈夫大丈夫。」と心のなかで自分に言い聞かせ、それでも極度の怖さと緊張感でいっぱいで、今思えば、ほぼ意識失った状態で立っていました。
たった一本の神経や線で、《満員電車の中》という現実世界と繋がっていると言いますか、それくらいの気が遠くにいってしまっている感じ。
こうなるともう、一層意識を失ってしまうくらいのほうが、よっぽど楽です。
そう出来ないのは、周りの目や後先のことを、考えてしまうからでしょうか。
魔の5,6駅、15分ほどでした。
毎度毎度具合が悪くなるたびに、『こんなの御免だ。』と強く思うのですが、さすがに昨日の状態は、いちばん酷く、もう限界を越えてしまったなと、感じました。
喉の調子も最近少し良くなってきたかな、というところでしたが、一気にまた悪い状態に復活。
喉の強ばりが激しく、呼吸も深く出来ずに浅くなり、全身の力も入らなくなってしまったので、電車から降りてからはふらふらと歩き、“早くひとりになりたい。一人の空間に入りたい。”と願い、お仕事先に着いてからは、お仕事着に着替える余裕もなく、控えに着くや否や、すぐに私服のまましゃがみこみました。
ようやく安心、の場かなあ。
けれど、電車での出来事を思い出し、緊張状態も続いたままだったので、段々と呼吸が乱れ、過呼吸に。
普段なら、数分で落ち着くものの、この日は自分でセーブが効かなくて、20分くらい過呼吸がおさまりませんでした。
こんなに長かったの初めてです。
お仕事先のかたが控えに来られたのをきっかけに、おさまったという。
私の様子がおかしいことに驚き、そして戸惑わせてしまいました。
無理矢理なのか、知っている人という安心感なのか、“抑えよう”という意思で、過呼吸は徐々におさまりました。
そこからは、何となく本調子ではないものの、普通にお仕事して、この日いちにちを終えました。
ーーー
段々と、緊張してしまう場所やタイミングが増えてきたり、頻度が多くなってきている気がします。
このままでは自分はどうなってしまうのかと、不安な気持ちも多いですが、その不安な思いが、悪い状態を引き連れてしまっていると思うので、あまり考え過ぎず、考えプラスにプラスに進んでゆきたいです。
けれど、
さすがに昨日の状態は、自分で自分を守ること、出来なかったなぁ。
本当に、神経だとかって、周りの攻撃でブチブチっと壊されてしまうことって、あるのだろうなと思わされました。
自分が壊しているのでなく、自分の把握&理解できている範囲外の出来事&攻撃で。
ーーー
頑張って、生きてゆかないと。。
2016年10月11日火曜日
歌えました!
こんばんは。
ご無沙汰しております。
今日はボイストレーニングでした。
オリジナル曲のレコーディングでした。
レッスン前に声の出が悪かったので、「あ、今日もあまりいいテイクが録れないかな。」と思っていたところ、なんと、予想を裏切り、今までで一番良い歌い方が出来ました。
こうして歌ったら、声もいい感じに出てくれるのかな、声に表情もついて、歌にも味を出せるかな。
そんなところまで歌えたことに、ここ最近のなかで、一番の喜び。
10月終わりに久しぶりにライブをやることになったので、その時も、今日の声の出を意識して、演奏しようと思います。
***
ひとつ、レッスン内で先生に言われたことに、ハッとしたことがありまして。
「全然声が出ないなかで、これだけ歌えるんだったら、大したもんで。反対に、声がもし治って出るようになったら、今歌えているように全然歌えなくなっていたりして。」
ハッとしてしまいました。
今では“声が出ない声が出ない”
“思うように声が出せなくて苦しい辛い”
そんな負の感情ばかりで、声を出していた気がします。
けれど、そのような状況のなか、声が出ないなりに、“今出せる声”というものを、強く意識して歌っていました。
この声だから、「出しやすい」声を、「聴いてもらってもおかしくない」声を。
なのでね、
普通の声が、今まで出せていた本来の声が、《自分の声》ではあるけれど、
もの凄く意識をして、発せられる声こそ、《自分の心の声》《叫びたい声》なのではないかと。
届かないからこそ
聴いてもらい辛いからこそ
“届くように”
声を
発する
ーーー
今日の時間が、いい収穫でした。
実りの秋、ということでしょうか(^-^)
P.S.写真は、この間自分家に出したハロウィンの飾りのひとつ。
季節ものの飾り、好きなのです。
*♪”
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