2016年11月30日水曜日

再び、電車で。

こんにちは。

一昨日、お仕事場への向かう電車のなか、また具合が悪くなり、お仕事お休みをもらってしまいました。


朝起きて、考え事をしていたら段々気持ちが悪くなってきて、吐き気も出てきたので、「これは今日の電車は危ういな。。」と思い、お休みの電話をしようと迷ったのですが、集合時間も迫ってきていて、朝の電車さえ乗りきれたら、きっと普通にお仕事出来るだろうと思い、気合いを入れてお家を出ることに。

駅へ向かう足取りも、時間のことを気にして、急いで駅へ向かってしまっては、電車に乗ってから動悸がしばらくおさまらずに、具合が悪くなってしまいがちなので、なるべく歩く速度を一定に、落ち着いて駅へと向かうようにしました。


電車に乗ってからも、周囲をあまり気にしないようにし、具合があまり良くないことも考えないように。


窓の外から外の景色が見えるうちにたくさん、遠くまで見える視界を目にたくさん吸収をして、空気もいっぱい吸い込んで、深呼吸をして。


けれど、電車がもうすぐ「地下に潜る」、その意識はやはり頭から離れてはくれなくて、地上から地下に潜る間に緊張が高まり、地下に潜ってからは一気に緊張感MAX。



どうも“地下”のほうが、外の景色もなくなり、窮屈に感じてしまうのか、地上のときよりも具合が悪くなりがちです。


扉がしまった瞬間の、あの、“次の駅にたどり着くまで、この電車から降りられない”という、まさに《恐怖》。


たったの2~3分でも耐えられなくて、怖いと感じてしまってからは、数秒で具合が悪くなってしまう。
落ち着かず、気分が悪くなり、意識が薄々。

(周りからはとても、“挙動不審”に見えていると思います。)



「もう立っていられない、限界。。」と、ふらふらしながらホームに降り、椅子に必死にたどり着いて座っていても、動悸は止まらず、気持ち悪さと、喉も苦しい。


椅子に座っていることすら辛い。



床にしゃがみこむ姿勢が一番楽であるけれど、公共の場ということを意識してしまう。


せめて、具合が悪くなっていることに、誰か気付いてと、願うことしか出来ない。



大抵、具合の悪くなるときには、重たい荷物。


必死のときには、鉛のよう。




早くお手洗いへ行き、楽な姿勢で、人の目気にせず、落ち着きたい。
一人になりたい。


もう出社時間も間に合わないのと、午前中は落ち着く気配がなかったので、社員さんへ連絡をして、お休みをもらいました。


連絡も、声を出す余裕がなかったので、メールの文章になってしまいました。





月一くらいで、こうして具合が悪くなってしまうなぁ。



考えすぎで体調が左右されてしまうって、身がもたないです、正直。



心の余裕の幅が、この一年で大きく、狭まっているのでしょう。



ちょっとバランスが崩れたくらいで、ぐらぐらゆらゆらと、あまりにも不安定な私のこころです。

2016年11月26日土曜日

心療内科、初受診。

こんにちは。

11月24日、関東に11月としては54年ぶりに雪が降りました。

外に出たら空気がとても冷え込んでいて、一気に真冬の感覚を、肌に感じました。

冬は、切なくなる感じがとても好きです。


そんな24日は、ボイスクリニックに紹介していただいた《心療内科》の病院に行ってきました。

一時間程、自分に起きている症状や、お仕事や私生活のこと、性格や家族構成、過去からのこと、お話してきました。


私としては、診断シートなどに沿って質問をされ、『あなたはこういう障害です。』と診断をされるのかなと思っていましたが、特にそういったものはなく、お話がメインでした。


初回だからかなぁ。

出来たら、障害の名前もはっきり聞きたいなと思っていたので、あまりすっきりしないで診断を終えましたが、ひとまず、これから通院をして、“心理療法”を受けてみることになりました。

色々と、「考えすぎと気にしすぎな性格で引き起こしている症状が多いのかもしれない」、とのことで。


薬は、あまり飲みたくないなと思っていたので、その方向でお願いしますと、お伝えをしました。


《心療内科》と言っても、対人間。


そこが難しくて症状が多く、出てきてしまっている私には、やはりカウンセリングの先生でも、まずは人間として接してしまいます。


[相性や空気感、程よさ。]

自分がこの人になら、と思えるような先生に、出会えるといいですね。



そうなると、心療内科など病院も関係なしに、今後の人生において、心許せる人やそういうきっかけの出来事に、たくさん出会えるようになるといいなと思います。


P.S.
あ、貼り付けている写真は、診察を受ける際に、分かりやすいかなと思って、予め自分の症状や苦手意識を持っているものを、紙にまとめておきました。
(あまりじっくりと見てもらえなくて、少し気分が落ちてしまいました。)

2016年11月18日金曜日

やさしい一言と、出てこなかった言葉。

こんばんは。

昨日のお仕事場にて。


お仕事仲間のかたと、お話をしていました。

そのかたは、私の声の不調のことを知っているのですが、屋上で機械を動かしながら、お話をしていたというのと、このとき、あまり声の通りが良くなかったということもあり、少し声が届きにくかったので、声を大きく出そうと意識をしてお話をしていたら、『声を張らしてしまってごめんね!』と。



そのような言葉、初めてでした。

ものすごく嬉しかったです。


その言葉を聞いた一瞬で、ジンと熱く、胸にきてしまいました。



そのような温かみのある言葉、もらえることもあるのだな、、



初めて、頑張って声を出していて良かったと、思えるくらいの出来事でした。



―――



そことは別に、同じ日の出来事。


同じくお仕事仲間のかた(先程とは別のかた)とお話をしていて。

『ま』から始まる会話を思い付いたとき、投げかけの文章を頭に思い描いて、声に出そうとしたのですが、驚くことに、声が出てきませんでした。

『ま』を言おうとして、口を開くも、すぐに口が閉じてしまう不思議な感覚。

勢いをつけて、発音する前に息をスッと吸うも、次に『ま』の言葉の“音”は出ず、その上、音の代わりに出てくるはずの息も、口から吐けていなくて、息が詰まるような苦しい感覚でした。

3,4回トライをしてみるも、『ま』は出てきませんでした。


けれど、負けたくはないので、何とか無理矢理、言葉の音を、口から押し出した感じです。


なんだったのでしょう、初めての感覚でした。

こういうのが、今後、増えてこなければいいのですが、、。



『ま』の発音が、難しかったのかなぁ?



今改めて思うと、“マ行”の発音は、少し息を吐き出す感覚が強いからなのかなぁとも、思ったり。



今後、このことが悪いほうへと、発展してゆかなければいいなぁ。。



P.S.来週、ボイスクリニックに紹介して頂いた、心療内科へと行ってきます。

2016年11月13日日曜日

声を褒められました。

こんばんは。

今日は、顔のマッサージをしてもらいに、エステサロンへとお仕事終わりに向かっていました。

担当して下さるエステティシャンのかたは、とても丁寧な話し方とお仕事のされ方で、そして何より心地のよい接し方。

初回にお会いした時は、緊張していましたが、3回目の来店となると、少しずつ私の心も開放されてきました。
“素敵だな”と思える人間性がうかがえるかた、ということが何よりとても、大きいのでしょう。


そのエステティシャンのかたに今日、「綺麗な声されていますよね。」と、マッサージ中に言っていただきました。
「透き通る声、されています。」
わぁ、まさかのお言葉。


確かに、今日はあまりガラついた声ではありませんでしたが、この声をお褒め頂けるなんて。

けれど、実際に、今まで何人かのかたに、声を褒めていただいたことがあります。

「いい声ですね。」「心地よい声。」と。



自分では、お馴染みとなっている声なので、聴いてくれるかたにどう響いているのか分からないのですが、そう思っていただけること、とても嬉しいことです。


ボイストレーニングの先生や、ライブで共演した子などに、褒めてもらったなぁ。。


今となっては《障害》をもった声ですが、障害をもった今でも、何人かのかたにそう言っていただけているので、それはとても大きく、“救い”の言葉となっています。


エステティシャンのかたに、「みんながそう言っているのなら、そうなのだと思いますよ。自信もっていいと思います^^」と、とても温かみのあるお言葉頂けて。


とてもプラスな、出来事ですね*



そんな今日は、ボイスクリニックに病院への紹介状を受け取りにも行きました。

《心療内科》。


月曜日に、予約の電話をかけてみようと思います。

診断してもらうことが、結構大きな、楽しみであったり。



悪化・拡大してゆく一方なので、少しでも緩和されることを、期待大に、病院へと向かいたいですね。

2016年11月8日火曜日

良かったみたい。

こんばんは。

先程、ボイトレのレッスンが終わり、外へ出てみると雨がパラパラとしていて、と同時に、気温が下がっていましたね。

寒い。


そんな今日のレッスンは、前回レコーディングした曲をMIX(音量や音質などの調整。)する、PC作業。


“歌わない(声を出さない)”、『ここが良くない』というような、マイナスの感想を言われない、という心の安心感なのか、サウンド調整のとき、自分の希望や言葉を発していると、「今日、声出てるね!」と、先生が。


「今まで聞いた中でいちばん出ているよ!」、と。


そう言ってもらって、“あ、話すことに対してさっきまで、あまり意識して声を出していなかったな。自然な成り行きで、会話していたな。”と気付きました。


普段から、あまり色々考えすぎず会話をしたり、言葉を発せられたら良いのでしょう。



自然を身に付ける訓練、でしょうか。


ぎこちなさや不自然さをまといながら自分を生きている私にとっては、《自然でいる》という、労力の使わなそうなことが、恐らくとても難しそうです。

少しずつ、まとっている重たく固い鎧、外してゆきたいですね。


今日のレッスンは珍しく、いつも以上に楽でいられた時間でした。♪

2016年11月7日月曜日

最近あった物事たち。

こんばんは。

最近、声のことに関してあったことを。ずらずらと。



*お仕事中、地上にいる私。そして、屋上にいる仲間のかたに、大きな声を出して合図をする場面。
6階くらいの高さの建物。

何度も大きな声を発さなくてはならない状況でしたが、頑張って声を出しました。

私が声を発さないと、仕事は進まない。
6階分くらいの距離を、聞こえるように、叫ぶに近い大きな声。
何度も何度も。


普段であれば、とてもではないけれど、めげてしまいそうな、この状況。
けれど、屋上に向かって顔を上げていたということもあってか、そんなに声は詰まらなかったような、気がしました。

角度にも、問題があるのでしょうか?



*お久しぶりに、ライブに出演してきました。約4ヶ月ぶり。

以前から何度か共演している子に、ライブの当日楽屋内で会ったときに、リハーサルでやっていた曲の感想をお伝えしたら、『いつも人当たりのいい言葉言ってもらえて、嬉しい!私はそういうこと言えない~!』、と。


思ったままの感想をお伝えしただけ、ではあるのですが、そこには、“伝えたい”だけの行為でなく、《挨拶》込みの話し掛ける目的であったり、初めての方には繋がりやすい《きっかけ》であったり、無言で楽屋にいるのもなんだか心がそわそわ、落ち着かないということもあり、《言葉を発しなくては!》と、いった理由で発せられた言葉でも、時にはあったり。
言葉の内容に、嘘はないけれど。


色んな理由も交じって、発せられることもある私の言葉に、素直に喜んでくれる人がいてくれること。

そのことを知ったとき、なんだかホワッと、とても嬉しく、思ってしまいました。


*そんなライブの演奏中、ライブならではの空気感であったり、緊張感、思い出しました。


演奏していて、“私の曲や演奏、どう思われているのだろう。”、“あ、今間違えてしまった、どう思われてしまったかな。”、“みんなが見ている。見られている。間違えそう。でも、止まってはいけない。怖い。怖い。。”

なんだか、今まで以上に、演奏しながら、心のなかで考える“意識”が増えてしまったなと、思いました。


やっぱりここ最近、“恐怖観念”が過剰に増えて、しまっているのでしょうね。



*母とのお出かけ。
ガラガラ声。

誰よりも、家族や身近な人と接するときに、一番に声が出なくなってしまう。

歌声に関しては、《出しやすい声》がわかってきたり、どういう状況で具合が悪くなったり、どんな場面が私には精神的に苦手なのかと、《理解》することはとても増えたけれど、ここに関しては‘唯一’、意識をしていても、ちっとも変わらないな。、

とても、悲しいなあ。。


*コンビニで、チケット引き換えのための店頭にて。

「インターネット決済お願いします。」と、高校生くらいの女の子の店員さんに、番号をお伝えする私。

二件、決済があったのと、店員さんとのやり取りの間で手違いがあり、何度か11桁程の数字を読むことに。


相変わらずの、ガラガラの聞き取りにくい声であったと思います。
けれど、その店員さんは、特に聞き取りづらそうにもしていませんでした。

ガラガラの声でも、どれも一回で聞き取ってくれていました。


そのことが私は、とても嬉しく。


人によって、聞き取りにくい声でも、スムーズに聞き取ってくれる人がいます。

ガラガラの声のことを、突っ込んでは悪いと思ってもらえているのか、はたまた最初から、気にしていないのか。

気を遣わせて、頑張って耳を集中して傾かせてしまうのは、とても悪いなと思ってしまいますが、そういうのは無しに、普通にスムーズに聞き取ってもらえる人がいること、それは声の障害をもった今の私にとって、とても幸せ。

あまり、そういう人に出会うことはないのだけれど。


きっと、私が“心許せる人”と思ってしまう確率と、同じなのかなと、思います。


フィーリングの問題。



*会話をしていて、私が話をしている場面。
もとから、物事や出来事の説明をすることはとても苦手。前もって話す順序や、内容を考えていないと、いきなり話し始めてしまうと、今、自分が何を話しているのか、分からなくなってしまう。

なので、話したいと思った内容を、相手の人に、その場の勢いで話始めてしまったこの間は、案の定、相手の人に伝わりにくい感じに。

「よく分からない。」と言われてしまい、もう一度、同じ内容を話そうと思うのですが、「よく分からない。」と言われてしまった瞬間、“やっぱり伝わらなかったか。。”と、瞬時に気持ちが落ちてしまうのと、『よく分からない』『意味が分からない』、そういった言葉って、なぜか自分を“否定”されてしまったように思えてしまい、それで一気に気分も落ちてしまう。

『意味分からない。』、その言葉はなぜかトラウマがあるみたいで、すごく苦手な言葉。
言われたくない言葉。
言われてしまい当然なのでしょうが、深く傷付いてしまいます。

分かっているからこそ、なのでしょうね。



話を戻しますと、「よく分からない。もう一回言って?」と、言われてしまった瞬間、頭のなか空っぽになっていました。
思考回路が途絶えた、と言いますか。

呼吸もハッと止まってしまい。
まばたきすらも、忘れてしまうくらい。

あの感覚は、何なのでしょう。


「よく分からない」と言われてしまったことに対してのショックと、伝わりづらかった内容を再び、今度は、“わかりやすく”伝えなければという、怯え?に近いものなのでしょうか?



しばらく声と言葉が、出てきませんでした。

頭のなかの真空の状態だけが、続いていました。


***



自分で起こす行動なはずなのに、トラウマや怯えや緊張感によって、自分の予期せぬ状況に陥ったり、今までになかった悪い変化へと、向かっていっていることが多いここ最近。


このまま、悪い変化が頻度が増えたり、事態が大きくならないことを、切に願います。


自分が自分でいられなくなってしまうことに、恐怖となりませんように。


自分が、空っぽとなって、しまいませんように。



***


そのためには、良きもの癒されるもの、少し無理にでも、たくさん吸収させてあげないとね。


無を願いがちですが、プラスを意識してゆきましょう。


とても文章、長くなりました。