2016年12月29日木曜日

心療内科、初カウンセリング。



二つ目の更新。


この間、通い始めた心療内科での、初カウンセリングを受けてきました。

30分程のカウンセリング、
最近起こっている症状や、私自身のことを、自ら話をしたり、質問を受け答えたり。


男性のカウンセラーのかたで、ゆっくりと話を聞いてくれ、じっくり考えてくださる感じが、あまり嫌に感じられなかったので、今後、私の担当になって下さるとのことで、これから少しでも心開いて、色々話をしてゆけるといいなと、思います。


ひとつ、最近気になっていたことがあって、そのことをカウンセリング中に持ち掛けてみたところ、『それは少し、問題がありそうですね。』とのことでした。

『何か、(人が苦手であることの)ヒントがありそう。』、と。


その、気になっていたこととは、“小さい頃の記憶がないこと。”



一般的には、3~4歳を過ぎたころくらいから、人って記憶があるようです。


けれど私が記憶があるのは、恐らく小学校6年生くらいからの12歳から?


そのことをカウンセラーのかたにお伝えをしたら、少し驚かれているようでした。



幼稚園や小学校、お友だちや習い事、学校の光景などは何となく覚えていますが、日常的な生活の様子などは、ほぼほぼ記憶になく。

写真を見て、「ああ、ここに行ったんだな、こんなことしたんだな。」と思うことはあっても、それは写真の存在に助けられているという感じで、そのときの様子や時間の流れ、感情などは、まったく覚えていません。



カウンセラーのかたいわく、『記憶がないくらいなので、記憶を消してしまいたいと思っていたから、ないのでしょう。なので、人と接することが苦手、人から見られるのが嫌という理由のヒントはここにあるのだと思いますが、ヒントを探って、記憶を思い出していくうちに、昔感じていた嫌な感情も、思い出してしまう可能性もある。そこは、本人がどうしたいか。
もうあと、2~3回カウンセリングで話を聞いてみて、今後どう、カウンセリングのメニューを組み立ててゆくか、決めましょう。』とのことでした。




パニック、人間が苦手、昔の記憶。


まさか、小さいころの自分に、今起きている症状や障害のために、触れてしまうかもしれないなんて。



このまま、思い出さずに封印させておきたい気も大きくあり、けれど、昔の自分が出していた“SOS”が、こうして今、危険信号として《障害》となっているのなら、少し、昔の自分を自分自身の腕で、大きく抱き締めてあげたい気も。




《発声障害》、《パニック障害》、色々と繋がって連鎖して起こっている、出来事なのでしょうね。



そういえば、カウンセリングの最後、カウンセラーのかたに、『一日の終わりに、“今日も無事だった”と、自分自身に言ってあげてください。』『そんなに(人に)、怯えることはないですよ。^^』と、おっしゃってもらいました。



最後の言葉が無条件に、深く心に響きました。


思わず泣いてしまいそうな瞬間、でした。


****

次回のカウンセリングは、1月中頃です。

人の気配と緊張感。

こんばんは。

少し前ですが、お仕事中の出来事。

色々と説明を受け、いざ、一人になりお仕事開始。

まず、『説明を受けた』ということに、恐らく普段以上に頭を使った(人の説明を理解するのに、少し時間がかかる)のと、『通行人が来たら、説明をしなければならない』というプレッシャー(声を出さなければならない、人と接しなければならない、苦手な説明をしなければならない)があったためか、徐々に緊張状態に。

途中、通行人のかたが目の前を通り過ぎたり、向かい側から私のほうに向かって歩いて来られることに、怯えのようなものも感じ。

2時間程、ずっと胃のあたりがグッと持ち上げられ、強く鷲掴みにされている感覚が続いていて、とても苦しく、じっと立っていることも必死でした。

唇も震え、首も不自然に何回も左右に振れ、落ち着かない、じっとしていられない、今にも泣き出しそう。


呼吸も苦しく、息がうまく吐けない。

こんな状態のときには、呼吸をするよりも、いっそう、息を止めておくほうが、よほど楽。


過呼吸寸前になりながら、何とか午前のお仕事は終えられました。

人との接点、人の気配や存在が、この日はややキャパオーバーしてしまったのでしょう。



私の症状を知って下さっているかたのいらっしゃる現場だったので、この午前中のことをお話してみたところ、気を遣って頂いて、午後は違う配置へと置いて下さいました。


障害のことを知ってくださっているかたがいるということは、とても助かることだなと、感じました。



                                         ***



写真は、この間のクリスマスに、長野県の《白馬》へと旅行した際のもの。


真っ白く雪が積もっております。


広々とした雪ぞらと青空のもと、普段できないような深い息を吸い込めるようでした。


人の存在で窮屈に縮こまっているわたしの心に、いい場所だったなという感じでした。

2016年12月16日金曜日

諸々。






こんばんは。


お久しぶりの更新です。


実は、書きたいこと色々溜まっていました。


〔更新は、遅くなってしまったのですが。〕



ーーー


*お仕事のとき。


鍵を借りに管理室へ。


わたしの声を聞き、「大丈夫ですか?風邪ですか?」と、担当のかた。


実は、半年くらい前も、同じかたから全く同じ言葉を。


一回目ほど、ショックは受けませんでしたが、風邪でもないので、「大丈夫ですー(^^)」という答えしか出せず。


何と、言っていいのか分からなくなりますよね。


「声に障害があって、、」なども、言えないですし。



ーーー


*お仕事先でのトラブル時の電話。


現場で、トラブルが起きました。


社員さんや担当のかたとお電話にて、このことをお伝えしたり、どう対処すべきかお聞きしたり。


電話で話をする前に、何度も何度も、話す内容をまとめて、練習をしてから、電話をかけました。


話がまとまっていないのに、いきなりかけてしまうと、頭の中が、すぐに、パニック状態になってしまうので。


電話中、パニックにはなりませんでしたが、声が最悪の詰まり具合でした。


声を出すのが、苦しくて苦しくて。


電話越しでしたので、更に相手のかたには、聞き取りにくく感じたのではないでしょうか。


すみませんです、本当。



ーーー


*テンションが高い?


これまたお仕事でのお話。


お仕事の前日、知り合いのかたとお会いしていて、声や身体の不調の話など聞いてもらい、少し気持ちがすっきりしたのか、次の日は気分を明るめに、楽しくゆこう!と思い、お仕事先でお仲間さんと接していると、「いつもと違って少しおかしい?おかしいというより、テンションが高い?」と言われてしまい、その言葉が相手のかたに負の方向に捉えられてしまったのかなと思い、ガタッと気持ちが崩れてしまいました。

(まったく悪い意味合いで、そのかたは言ったわけではないと思います。)


せっかく明るく方向転換したばかりが、一気に逆戻り笑


うーん、明るくいる自分は、やはり私らしくないのかしら?


大人しくあまり喋らないほうが、わたしらしい?


本来の自分を取り戻そうとしているけれど、今の自分のほうが、本来らしく、なってしまっているのでしょうか。



ーーー


*少し、楽しくて、嬉しい。



何度もお仕事ばなしでごめんなさい。



外に立っている役割のとき、何度か通行人のかたが話しかけてくれて。


杖をついているご年配のかたに、「がんばってねぇ。」と言っていただけたときは、なんだかとても、切なくなってしまいました。


通行人のかたが、快く挨拶をしてくれたり、返してくれたり、そういうとき、「ああ、言葉を発して良かったな。」と、感じてしまいます。


嬉しくて、ちょっぴり、言葉の交わしが、楽しい。



(お仕事のワードを発するときも、常に緊張をしてしまっている、わたしです。)



ーーー


*飲み会での、言葉の発し。



お仕事仲間さんの出られるライブをひとりで観に行き。


そうしたら、何人か、お客さんとして、職場のかたが来ていて。


“このあと、どこかお店行くけれど、行く??”と誘われ、普段ならそそくさと逃げるように断って、帰ってしまうのですが、苦手なかたがたではないので、思いきって、誘いにのってみることに。


会場のなか、お店へ移動するとき、飲みの席、


がんばって、頭に浮かんだ会話のフレーズ、口に出してみました。




本来なら、自然な会話のやりとり。



わたしにとっての会話は、とても勢いと勇気のいるもの。



楽しかったというより、頑張った、という感覚が大きかったかなぁ。


それでも、声がちゃんと届いていた。会話できた。


それが嬉しく、



楽しかったのかな、と思います。



これから徐々にでも、頑張ってゆける場所、機会、楽しめる場所、楽でいられる空間、が増えてゆくといいなぁ



、と。







***






写真のお花二枚は、少し前に、お家の近くの公園に咲いていたもの。



普段から、とても身近に感じられる、わたしの嬉しい癒し。




人間よりも、お花にそっと、寄り添えたら、今のわたしはほっこり幸せ。



人間は、これからがんばって、歩み寄ってゆかないと、いけないですね。



そんな、




近頃の諸々でした。




2016年11月30日水曜日

再び、電車で。

こんにちは。

一昨日、お仕事場への向かう電車のなか、また具合が悪くなり、お仕事お休みをもらってしまいました。


朝起きて、考え事をしていたら段々気持ちが悪くなってきて、吐き気も出てきたので、「これは今日の電車は危ういな。。」と思い、お休みの電話をしようと迷ったのですが、集合時間も迫ってきていて、朝の電車さえ乗りきれたら、きっと普通にお仕事出来るだろうと思い、気合いを入れてお家を出ることに。

駅へ向かう足取りも、時間のことを気にして、急いで駅へ向かってしまっては、電車に乗ってから動悸がしばらくおさまらずに、具合が悪くなってしまいがちなので、なるべく歩く速度を一定に、落ち着いて駅へと向かうようにしました。


電車に乗ってからも、周囲をあまり気にしないようにし、具合があまり良くないことも考えないように。


窓の外から外の景色が見えるうちにたくさん、遠くまで見える視界を目にたくさん吸収をして、空気もいっぱい吸い込んで、深呼吸をして。


けれど、電車がもうすぐ「地下に潜る」、その意識はやはり頭から離れてはくれなくて、地上から地下に潜る間に緊張が高まり、地下に潜ってからは一気に緊張感MAX。



どうも“地下”のほうが、外の景色もなくなり、窮屈に感じてしまうのか、地上のときよりも具合が悪くなりがちです。


扉がしまった瞬間の、あの、“次の駅にたどり着くまで、この電車から降りられない”という、まさに《恐怖》。


たったの2~3分でも耐えられなくて、怖いと感じてしまってからは、数秒で具合が悪くなってしまう。
落ち着かず、気分が悪くなり、意識が薄々。

(周りからはとても、“挙動不審”に見えていると思います。)



「もう立っていられない、限界。。」と、ふらふらしながらホームに降り、椅子に必死にたどり着いて座っていても、動悸は止まらず、気持ち悪さと、喉も苦しい。


椅子に座っていることすら辛い。



床にしゃがみこむ姿勢が一番楽であるけれど、公共の場ということを意識してしまう。


せめて、具合が悪くなっていることに、誰か気付いてと、願うことしか出来ない。



大抵、具合の悪くなるときには、重たい荷物。


必死のときには、鉛のよう。




早くお手洗いへ行き、楽な姿勢で、人の目気にせず、落ち着きたい。
一人になりたい。


もう出社時間も間に合わないのと、午前中は落ち着く気配がなかったので、社員さんへ連絡をして、お休みをもらいました。


連絡も、声を出す余裕がなかったので、メールの文章になってしまいました。





月一くらいで、こうして具合が悪くなってしまうなぁ。



考えすぎで体調が左右されてしまうって、身がもたないです、正直。



心の余裕の幅が、この一年で大きく、狭まっているのでしょう。



ちょっとバランスが崩れたくらいで、ぐらぐらゆらゆらと、あまりにも不安定な私のこころです。

2016年11月26日土曜日

心療内科、初受診。

こんにちは。

11月24日、関東に11月としては54年ぶりに雪が降りました。

外に出たら空気がとても冷え込んでいて、一気に真冬の感覚を、肌に感じました。

冬は、切なくなる感じがとても好きです。


そんな24日は、ボイスクリニックに紹介していただいた《心療内科》の病院に行ってきました。

一時間程、自分に起きている症状や、お仕事や私生活のこと、性格や家族構成、過去からのこと、お話してきました。


私としては、診断シートなどに沿って質問をされ、『あなたはこういう障害です。』と診断をされるのかなと思っていましたが、特にそういったものはなく、お話がメインでした。


初回だからかなぁ。

出来たら、障害の名前もはっきり聞きたいなと思っていたので、あまりすっきりしないで診断を終えましたが、ひとまず、これから通院をして、“心理療法”を受けてみることになりました。

色々と、「考えすぎと気にしすぎな性格で引き起こしている症状が多いのかもしれない」、とのことで。


薬は、あまり飲みたくないなと思っていたので、その方向でお願いしますと、お伝えをしました。


《心療内科》と言っても、対人間。


そこが難しくて症状が多く、出てきてしまっている私には、やはりカウンセリングの先生でも、まずは人間として接してしまいます。


[相性や空気感、程よさ。]

自分がこの人になら、と思えるような先生に、出会えるといいですね。



そうなると、心療内科など病院も関係なしに、今後の人生において、心許せる人やそういうきっかけの出来事に、たくさん出会えるようになるといいなと思います。


P.S.
あ、貼り付けている写真は、診察を受ける際に、分かりやすいかなと思って、予め自分の症状や苦手意識を持っているものを、紙にまとめておきました。
(あまりじっくりと見てもらえなくて、少し気分が落ちてしまいました。)

2016年11月18日金曜日

やさしい一言と、出てこなかった言葉。

こんばんは。

昨日のお仕事場にて。


お仕事仲間のかたと、お話をしていました。

そのかたは、私の声の不調のことを知っているのですが、屋上で機械を動かしながら、お話をしていたというのと、このとき、あまり声の通りが良くなかったということもあり、少し声が届きにくかったので、声を大きく出そうと意識をしてお話をしていたら、『声を張らしてしまってごめんね!』と。



そのような言葉、初めてでした。

ものすごく嬉しかったです。


その言葉を聞いた一瞬で、ジンと熱く、胸にきてしまいました。



そのような温かみのある言葉、もらえることもあるのだな、、



初めて、頑張って声を出していて良かったと、思えるくらいの出来事でした。



―――



そことは別に、同じ日の出来事。


同じくお仕事仲間のかた(先程とは別のかた)とお話をしていて。

『ま』から始まる会話を思い付いたとき、投げかけの文章を頭に思い描いて、声に出そうとしたのですが、驚くことに、声が出てきませんでした。

『ま』を言おうとして、口を開くも、すぐに口が閉じてしまう不思議な感覚。

勢いをつけて、発音する前に息をスッと吸うも、次に『ま』の言葉の“音”は出ず、その上、音の代わりに出てくるはずの息も、口から吐けていなくて、息が詰まるような苦しい感覚でした。

3,4回トライをしてみるも、『ま』は出てきませんでした。


けれど、負けたくはないので、何とか無理矢理、言葉の音を、口から押し出した感じです。


なんだったのでしょう、初めての感覚でした。

こういうのが、今後、増えてこなければいいのですが、、。



『ま』の発音が、難しかったのかなぁ?



今改めて思うと、“マ行”の発音は、少し息を吐き出す感覚が強いからなのかなぁとも、思ったり。



今後、このことが悪いほうへと、発展してゆかなければいいなぁ。。



P.S.来週、ボイスクリニックに紹介して頂いた、心療内科へと行ってきます。

2016年11月13日日曜日

声を褒められました。

こんばんは。

今日は、顔のマッサージをしてもらいに、エステサロンへとお仕事終わりに向かっていました。

担当して下さるエステティシャンのかたは、とても丁寧な話し方とお仕事のされ方で、そして何より心地のよい接し方。

初回にお会いした時は、緊張していましたが、3回目の来店となると、少しずつ私の心も開放されてきました。
“素敵だな”と思える人間性がうかがえるかた、ということが何よりとても、大きいのでしょう。


そのエステティシャンのかたに今日、「綺麗な声されていますよね。」と、マッサージ中に言っていただきました。
「透き通る声、されています。」
わぁ、まさかのお言葉。


確かに、今日はあまりガラついた声ではありませんでしたが、この声をお褒め頂けるなんて。

けれど、実際に、今まで何人かのかたに、声を褒めていただいたことがあります。

「いい声ですね。」「心地よい声。」と。



自分では、お馴染みとなっている声なので、聴いてくれるかたにどう響いているのか分からないのですが、そう思っていただけること、とても嬉しいことです。


ボイストレーニングの先生や、ライブで共演した子などに、褒めてもらったなぁ。。


今となっては《障害》をもった声ですが、障害をもった今でも、何人かのかたにそう言っていただけているので、それはとても大きく、“救い”の言葉となっています。


エステティシャンのかたに、「みんながそう言っているのなら、そうなのだと思いますよ。自信もっていいと思います^^」と、とても温かみのあるお言葉頂けて。


とてもプラスな、出来事ですね*



そんな今日は、ボイスクリニックに病院への紹介状を受け取りにも行きました。

《心療内科》。


月曜日に、予約の電話をかけてみようと思います。

診断してもらうことが、結構大きな、楽しみであったり。



悪化・拡大してゆく一方なので、少しでも緩和されることを、期待大に、病院へと向かいたいですね。

2016年11月8日火曜日

良かったみたい。

こんばんは。

先程、ボイトレのレッスンが終わり、外へ出てみると雨がパラパラとしていて、と同時に、気温が下がっていましたね。

寒い。


そんな今日のレッスンは、前回レコーディングした曲をMIX(音量や音質などの調整。)する、PC作業。


“歌わない(声を出さない)”、『ここが良くない』というような、マイナスの感想を言われない、という心の安心感なのか、サウンド調整のとき、自分の希望や言葉を発していると、「今日、声出てるね!」と、先生が。


「今まで聞いた中でいちばん出ているよ!」、と。


そう言ってもらって、“あ、話すことに対してさっきまで、あまり意識して声を出していなかったな。自然な成り行きで、会話していたな。”と気付きました。


普段から、あまり色々考えすぎず会話をしたり、言葉を発せられたら良いのでしょう。



自然を身に付ける訓練、でしょうか。


ぎこちなさや不自然さをまといながら自分を生きている私にとっては、《自然でいる》という、労力の使わなそうなことが、恐らくとても難しそうです。

少しずつ、まとっている重たく固い鎧、外してゆきたいですね。


今日のレッスンは珍しく、いつも以上に楽でいられた時間でした。♪

2016年11月7日月曜日

最近あった物事たち。

こんばんは。

最近、声のことに関してあったことを。ずらずらと。



*お仕事中、地上にいる私。そして、屋上にいる仲間のかたに、大きな声を出して合図をする場面。
6階くらいの高さの建物。

何度も大きな声を発さなくてはならない状況でしたが、頑張って声を出しました。

私が声を発さないと、仕事は進まない。
6階分くらいの距離を、聞こえるように、叫ぶに近い大きな声。
何度も何度も。


普段であれば、とてもではないけれど、めげてしまいそうな、この状況。
けれど、屋上に向かって顔を上げていたということもあってか、そんなに声は詰まらなかったような、気がしました。

角度にも、問題があるのでしょうか?



*お久しぶりに、ライブに出演してきました。約4ヶ月ぶり。

以前から何度か共演している子に、ライブの当日楽屋内で会ったときに、リハーサルでやっていた曲の感想をお伝えしたら、『いつも人当たりのいい言葉言ってもらえて、嬉しい!私はそういうこと言えない~!』、と。


思ったままの感想をお伝えしただけ、ではあるのですが、そこには、“伝えたい”だけの行為でなく、《挨拶》込みの話し掛ける目的であったり、初めての方には繋がりやすい《きっかけ》であったり、無言で楽屋にいるのもなんだか心がそわそわ、落ち着かないということもあり、《言葉を発しなくては!》と、いった理由で発せられた言葉でも、時にはあったり。
言葉の内容に、嘘はないけれど。


色んな理由も交じって、発せられることもある私の言葉に、素直に喜んでくれる人がいてくれること。

そのことを知ったとき、なんだかホワッと、とても嬉しく、思ってしまいました。


*そんなライブの演奏中、ライブならではの空気感であったり、緊張感、思い出しました。


演奏していて、“私の曲や演奏、どう思われているのだろう。”、“あ、今間違えてしまった、どう思われてしまったかな。”、“みんなが見ている。見られている。間違えそう。でも、止まってはいけない。怖い。怖い。。”

なんだか、今まで以上に、演奏しながら、心のなかで考える“意識”が増えてしまったなと、思いました。


やっぱりここ最近、“恐怖観念”が過剰に増えて、しまっているのでしょうね。



*母とのお出かけ。
ガラガラ声。

誰よりも、家族や身近な人と接するときに、一番に声が出なくなってしまう。

歌声に関しては、《出しやすい声》がわかってきたり、どういう状況で具合が悪くなったり、どんな場面が私には精神的に苦手なのかと、《理解》することはとても増えたけれど、ここに関しては‘唯一’、意識をしていても、ちっとも変わらないな。、

とても、悲しいなあ。。


*コンビニで、チケット引き換えのための店頭にて。

「インターネット決済お願いします。」と、高校生くらいの女の子の店員さんに、番号をお伝えする私。

二件、決済があったのと、店員さんとのやり取りの間で手違いがあり、何度か11桁程の数字を読むことに。


相変わらずの、ガラガラの聞き取りにくい声であったと思います。
けれど、その店員さんは、特に聞き取りづらそうにもしていませんでした。

ガラガラの声でも、どれも一回で聞き取ってくれていました。


そのことが私は、とても嬉しく。


人によって、聞き取りにくい声でも、スムーズに聞き取ってくれる人がいます。

ガラガラの声のことを、突っ込んでは悪いと思ってもらえているのか、はたまた最初から、気にしていないのか。

気を遣わせて、頑張って耳を集中して傾かせてしまうのは、とても悪いなと思ってしまいますが、そういうのは無しに、普通にスムーズに聞き取ってもらえる人がいること、それは声の障害をもった今の私にとって、とても幸せ。

あまり、そういう人に出会うことはないのだけれど。


きっと、私が“心許せる人”と思ってしまう確率と、同じなのかなと、思います。


フィーリングの問題。



*会話をしていて、私が話をしている場面。
もとから、物事や出来事の説明をすることはとても苦手。前もって話す順序や、内容を考えていないと、いきなり話し始めてしまうと、今、自分が何を話しているのか、分からなくなってしまう。

なので、話したいと思った内容を、相手の人に、その場の勢いで話始めてしまったこの間は、案の定、相手の人に伝わりにくい感じに。

「よく分からない。」と言われてしまい、もう一度、同じ内容を話そうと思うのですが、「よく分からない。」と言われてしまった瞬間、“やっぱり伝わらなかったか。。”と、瞬時に気持ちが落ちてしまうのと、『よく分からない』『意味が分からない』、そういった言葉って、なぜか自分を“否定”されてしまったように思えてしまい、それで一気に気分も落ちてしまう。

『意味分からない。』、その言葉はなぜかトラウマがあるみたいで、すごく苦手な言葉。
言われたくない言葉。
言われてしまい当然なのでしょうが、深く傷付いてしまいます。

分かっているからこそ、なのでしょうね。



話を戻しますと、「よく分からない。もう一回言って?」と、言われてしまった瞬間、頭のなか空っぽになっていました。
思考回路が途絶えた、と言いますか。

呼吸もハッと止まってしまい。
まばたきすらも、忘れてしまうくらい。

あの感覚は、何なのでしょう。


「よく分からない」と言われてしまったことに対してのショックと、伝わりづらかった内容を再び、今度は、“わかりやすく”伝えなければという、怯え?に近いものなのでしょうか?



しばらく声と言葉が、出てきませんでした。

頭のなかの真空の状態だけが、続いていました。


***



自分で起こす行動なはずなのに、トラウマや怯えや緊張感によって、自分の予期せぬ状況に陥ったり、今までになかった悪い変化へと、向かっていっていることが多いここ最近。


このまま、悪い変化が頻度が増えたり、事態が大きくならないことを、切に願います。


自分が自分でいられなくなってしまうことに、恐怖となりませんように。


自分が、空っぽとなって、しまいませんように。



***


そのためには、良きもの癒されるもの、少し無理にでも、たくさん吸収させてあげないとね。


無を願いがちですが、プラスを意識してゆきましょう。


とても文章、長くなりました。

2016年10月25日火曜日

リハビリ日5日目。

こんばんは。

約2ヶ月ぶりのボイスクリニック、今日はリハビリ日でした。

2ヶ月の間で、《いっとき声が出やすくなった→この間の満員電車での出来事でまた声が不調になった》、ことをお伝えしました。

話をしていて、担当の言語聴覚士さんが「声のことも、パニックのようなものと関係しているのかもしれないね。」という話になり、ボイスクリニックが提携している“心療内科”のある病院を紹介していただくことになりました。

私も、そのほうが良いのだろうな、と。


不調になる頻度が増えてきてしまったこと、具合が悪くなったり、過呼吸の度合いが大きくなってしまったこと、自分の意思で、自分の身体をコントロールさせるのが難しくなってきたこと。


早く診察を受けて、症状の病名が分かるといいです。


来月には、“心療内科”、行けるかなと思います。


ーーー

P.S.帰り道、電車の乗り換えの途中に、お友だちがアルバイトをしている飲食店を通ることに。

「いるといいな。」と思い、お店の前を通ってみると、働いていました(^-^)


名前を呼んで声をかけて、二言三言お話をしました。


なんだかそれだけですが、お友だちと久しぶりに会えたことが嬉しかったので(*^^*)


それでは。

2016年10月23日日曜日

緊張。



こんにちは。


連続投稿です。


今日はお仕事をしているのですが、同じ現場の方々にレアチーズケーキをお昼前にプレゼントしました。


日頃、沢山気を遣っていただいたり、昨日のお仕事内容がお二方とも、とてもハードなものであったので、あまり力になれなかったので、思い立って昨日作ってみました!


作ったはいいものの、人に何か特別なことをしたり、何かをあげるとき、妙に緊張してしまう癖があります。


「やりたくない…」と逃げたくなるくらいの緊張感です。


何と言って渡そう、どんな反応されるかな、ちゃんと喜んでもらえるかな、どのタイミングで渡そう、今渡したら邪魔かな、今はいらないかな、時じゃないかな、なんて、


色々考えていたら、心臓バクバクしてきて。


本当は朝お渡しする予定が、『今日は立ち会いのかたもいるし、早めに作業開始したほうが良いか。。』と、考えに考え抜いて、朝はやめるという形に。


お昼前もけれど実は、お二人が喫煙所に行ってしまって渡すタイミングを逃してしまったので、『か、帰りにしよう、、』と最終手段まで逃れることになりかけたのですが、


ちょうどお二人が控え室に戻ってくる姿が見えたので、勢いでお渡ししました!


勢いがないと私、ぐずぐずと考えが頭のなかに渦巻いていて、なかなか行動出来ないですねぇ、、



“味、大丈夫かな。”、“チーズ食べられるかな?”、“チーズ大丈夫でも、レアチーズだと苦手な人といたりするしな、、”

不安な気持ちで、胸がいっぱいではち切れんばかりでしたが笑、食べていただいて、「オイシイ!」と言ってもらえて、ようやく、心落ち着きました。

そして、嬉しかったです。



良かった。


喜んでもらえて、私も嬉しいなぁ。。




そんな“緊張”する場、結構あったりします。



他の人にはどうってことのない、「え、なんでここで?」と思われてしまうかもしれませんが。



私にとっての電車は言わずもがな。


それと、上で書いたように、人に何かをあげるとき、特別なことをするとき、自分から誰かを、ご飯や遊びなど誘うとき、何か意見や希望を言おうと言葉を発する直前(何度も言葉選びをしたり、何て言おうか考えたり、タイミングをかなりうかがってしまいます。)、そして、待ち合わせをするとき。


どれも、初めての人に対してでなくても、知っている人に対しても緊張してしまいます。


というより、知っているかたに対してのほうが、何故か何倍も緊張をしてしまう。。


不思議です。


自分が相手のかたにどう見られるか、どう思われるか必要以上に、気にしてしまっているのかなぁ、、


なかなか、難しい性質をしています、自分。

切り取りの世界。

こんにちは。

一昨日は、『考えが少し変わりそうな出来事があった。』と最後に書き、今回の日記に託しました。

その、《出来事》について。


出来事といっても、そんなに一大事件のようなしっかりとした事柄ではなく、ほんのちょっとしたことなのです。


私は昔から、人に見られるということが苦手でした。実際、相手は私のことを見ていなくても、何だか顔がこちらに向いて見られている気にもなる。


電車のなか、すれ違う人々、信号待ちの向かい側の人、、


そのたびに顔や視線をそむけ、時には勝手に不機嫌にもなっていました。

一昨日、お仕事をしていて外に立っているときのことでした。

反対側の通路を歩いているかたがこちらを見ているようで、「何だか嫌だな。」と感じていたのですが、実際、本当に見ていたようで、私に声をかけてこられました。


「突然ごめんね!女の子で珍しいね、このお仕事(男性がメインのお仕事なのです。)。あなたもあれやるの??」


とても気さくに、話しかけて下さいました。

そして、「頑張ってね、急に話しかけちゃってごめんね!」と、片腕を上げ、私に手を振って帰られました。



そして、思ったこと。


“こんなフランクに接して下さったのに、初め、『見られているから』と嫌悪感抱いてしまった自分、ダメだな。”と。

相手のかたに申し訳ない。。


もし、話しかけてもらうことがなければ、その方は私にとって嫌な印象で終わってしまいました。


「第一印象と、実際の人柄とのギャップ」のようなものでしょうか。



見られているその一瞬の《切り取り》だけで、相手や物事の印象を決めてしまうのは、それは私の自分勝手な行動だなと、思いました。



その日の帰りも、自宅近くのドラッグストアで化粧品を見ていて、そばにアドバイザーの店員さんがいらっしゃって、何となく『その場に居づらいな…』と感じてしまったのですが、「そちら、新商品なんです(^^)」とお声かけをして下さった声は、とても親切で愛想のあるものでした。


「店員さんが私のそばにいる」、その《切り取り》。


けれどその先のストーリーを覗いてみたら、それは温かみや笑顔も交えるもので。



なので、



『自分の勝手な印象だけで、周りの人を嫌に思ってしまうのはやめよう。』と、思いました。


その先のストーリーも、覗いてみようと。

もし発展がなくて覗けなくても、思い描いてみることで、ほっこりする続きがあるかもしれない。



そう思うと、常に自分をまとってしまう重たい鎧から、少しは解放されるのではないか。。




翌日も、お仕事で外に立っていたところ、女性の年配のかたが私を見て、「偉いね、頑張ってね^^」と。


《見られている→応援して下さる》


目の前に現れた駐禁取り締まりのかたが車を見たついでに、そばにあった金木犀の木の枝を自分の顔に寄せ付け、お花の香りを嗅いでいました。


《駐禁のひと→ほっこりする光景》



電車に杖をついたかたが現れ、目の前に座っていた女性が席を譲ろうと。

けれど、杖を持っていたかたは「いいのいいの、すぐだから。大丈夫だから。」とのお言葉を。

そして、次の駅。

乗客が乗り込んでくる。


《乗り込んできた乗客が杖のかたに気がつく→席に座っている人たちは席も譲らず、“冷たい”のではないかと思う→実はそうではない》



***



よく、芸能界だとかの情報や言葉の発信も、ニュースや書き込みの人たちに“オイシイ”部分だけ《切り取られ》て、「こういう意味合いで言ったのでないのに。」や、「この言葉の前にはこういうお話もしていたんですよ。」というようなことを聞いたりするけれど、こういうのも《切り取り》の世界なのでしょう。



切り取られた部分だけ、自分に取り入れるか、



切り取られた部分に何を見て、何を繋ぎ合わせるのか、それが大事なのかなと、気づいた出来事たちでした。



なんでしょう。



心弱っていたり、不安定なときって、考えさせられたり気づいたりすることが多いです。



だから、




弱ることも好きなのでしょうか。

2016年10月21日金曜日

心配をかけて。


こんばんは。

ひとつ前の日記で書かせてもらった、電車での出来事。

とても精神的にもまいってしまい。

私はマイナスの感情になるとつい、Twitterで思わず負の文章を綴ってしまいがち。


誰かが見ていると分かっていても、ここに綴るということは、“伝えたい”、“知ってもらいたい”という思いが強いからなのでしょうか。

大きな心配をかけさせてしまうことは、「本当にすみません。。」と思うのですが、私みたいに、直接誰かに言葉や表情、動きで辛さを表現することが苦手な人にとって、“文字(文章)”というものは喋っている言葉と同じくらい生きているもの、なのではないかなぁと。
色や熱がこもっているもの、なのです。


私は、声を出して思いや自分を出すより、文章にする方がとても楽で、より思っていることを出せるというか、ナチュラルに自分が出てくる、そんな感じでしょうか。


ーーー

案の定、私のマイナスツイートを見て、家族が特に心配をしてくれて、父からメッセージもらったり、母や妹は次の日、わたしのお家のほうまで来てくれました。


「限界を越えた。」と綴ってしまったからでしょうか。

温かいです。


一緒に外で、夜ご飯を食べました。


美味しかったです。



家族といると、私が子供だった頃から今に向かっての成り立ちを、垣間見るような気がします。


小さい頃は、『無表情だった。』と祖母に心配されていたそうです。


確かに、“我”がいなかったのかも、我を持っていなかったかもしれません。


好きなアーティストに出会ったり、音楽をするようになったり、恋愛をしてきたり、一人暮らしを始めたり。


そうしてようやく、《自分》が生まれてきたような。


けれど、人と接するようになり《自分》が消えてしまうことも増えました。


言いたいことを言えない、自分をうまく出せない、人の目が気になる、相手のことを気にしてしまう、、



《自分》は生まれたけれど、《人といるときの自分》は上手に育っていない、感じ?、、



こういうのって、慣れ、なのでしょうか?


とはまた、違うものかなぁ。



でも、少しこれが改善されそうな出来事と言いますか、観点が変わりそうなこと(案外小さなことです。)があったので、それはまた、次に綴りますね。

それでは。

2016年10月19日水曜日

魔の5,6駅。

こんにちは。

今日は暖かです。

昨日もいいお天気でした。

そんな昨日の朝の通勤電車、今までで最も悲惨でした。


そのお話を。


私が乗っている電車は、元から乗車率の高い路線なのですが、この日は遅延していたということもあり、更に乗車率が増しに増していて。

初めは『すごい人だ~。』と思って乗っていたのですが、途中からあまりのギュウギュウさに、急に緊張スイッチが入ってしまったみたいで。

『あ、これはまずいかも。具合悪くなるパターンだ。』

気を失う寸前の意識のなか、けれど周りの人に押されに押され、窓に手を突っ張りながら、姿勢を保つのに必死。

具合が悪いのに、力を振り絞るなんて、最悪の状態。。


『もうこれは完全にアウトだ…。』と、あまりに耐えられそうになかったので、電車を降りようとしたのですが、あまりの満員具合に一切、身動きもとれず。。

“降りられない、、!”

そうと分かった瞬間、一気に‘恐怖度’が増し、汗も止まらず、今にも気を失ってしまうのではないかという、ギリギリの状態。

目をつむり、必死に「大丈夫大丈夫。」と心のなかで自分に言い聞かせ、それでも極度の怖さと緊張感でいっぱいで、今思えば、ほぼ意識失った状態で立っていました。

たった一本の神経や線で、《満員電車の中》という現実世界と繋がっていると言いますか、それくらいの気が遠くにいってしまっている感じ。



こうなるともう、一層意識を失ってしまうくらいのほうが、よっぽど楽です。


そう出来ないのは、周りの目や後先のことを、考えてしまうからでしょうか。



魔の5,6駅、15分ほどでした。


毎度毎度具合が悪くなるたびに、『こんなの御免だ。』と強く思うのですが、さすがに昨日の状態は、いちばん酷く、もう限界を越えてしまったなと、感じました。



喉の調子も最近少し良くなってきたかな、というところでしたが、一気にまた悪い状態に復活。

喉の強ばりが激しく、呼吸も深く出来ずに浅くなり、全身の力も入らなくなってしまったので、電車から降りてからはふらふらと歩き、“早くひとりになりたい。一人の空間に入りたい。”と願い、お仕事先に着いてからは、お仕事着に着替える余裕もなく、控えに着くや否や、すぐに私服のまましゃがみこみました。



ようやく安心、の場かなあ。



けれど、電車での出来事を思い出し、緊張状態も続いたままだったので、段々と呼吸が乱れ、過呼吸に。


普段なら、数分で落ち着くものの、この日は自分でセーブが効かなくて、20分くらい過呼吸がおさまりませんでした。


こんなに長かったの初めてです。


お仕事先のかたが控えに来られたのをきっかけに、おさまったという。

私の様子がおかしいことに驚き、そして戸惑わせてしまいました。


無理矢理なのか、知っている人という安心感なのか、“抑えよう”という意思で、過呼吸は徐々におさまりました。



そこからは、何となく本調子ではないものの、普通にお仕事して、この日いちにちを終えました。




ーーー


段々と、緊張してしまう場所やタイミングが増えてきたり、頻度が多くなってきている気がします。


このままでは自分はどうなってしまうのかと、不安な気持ちも多いですが、その不安な思いが、悪い状態を引き連れてしまっていると思うので、あまり考え過ぎず、考えプラスにプラスに進んでゆきたいです。



けれど、




さすがに昨日の状態は、自分で自分を守ること、出来なかったなぁ。


本当に、神経だとかって、周りの攻撃でブチブチっと壊されてしまうことって、あるのだろうなと思わされました。



自分が壊しているのでなく、自分の把握&理解できている範囲外の出来事&攻撃で。


ーーー


頑張って、生きてゆかないと。。

2016年10月11日火曜日

歌えました!


こんばんは。

ご無沙汰しております。

今日はボイストレーニングでした。
オリジナル曲のレコーディングでした。

レッスン前に声の出が悪かったので、「あ、今日もあまりいいテイクが録れないかな。」と思っていたところ、なんと、予想を裏切り、今までで一番良い歌い方が出来ました。

こうして歌ったら、声もいい感じに出てくれるのかな、声に表情もついて、歌にも味を出せるかな。

そんなところまで歌えたことに、ここ最近のなかで、一番の喜び。


10月終わりに久しぶりにライブをやることになったので、その時も、今日の声の出を意識して、演奏しようと思います。


***


ひとつ、レッスン内で先生に言われたことに、ハッとしたことがありまして。


「全然声が出ないなかで、これだけ歌えるんだったら、大したもんで。反対に、声がもし治って出るようになったら、今歌えているように全然歌えなくなっていたりして。」


ハッとしてしまいました。


今では“声が出ない声が出ない”

“思うように声が出せなくて苦しい辛い”


そんな負の感情ばかりで、声を出していた気がします。

けれど、そのような状況のなか、声が出ないなりに、“今出せる声”というものを、強く意識して歌っていました。


この声だから、「出しやすい」声を、「聴いてもらってもおかしくない」声を。


なのでね、



普通の声が、今まで出せていた本来の声が、《自分の声》ではあるけれど、


もの凄く意識をして、発せられる声こそ、《自分の心の声》《叫びたい声》なのではないかと。



届かないからこそ

聴いてもらい辛いからこそ


“届くように”


声を


発する




ーーー


今日の時間が、いい収穫でした。



実りの秋、ということでしょうか(^-^)



P.S.写真は、この間自分家に出したハロウィンの飾りのひとつ。

季節ものの飾り、好きなのです。
*♪”

2016年9月25日日曜日

お久しぶりです、の苦しさ。

こんばんは。

今日はお友だちとディズニー・オン・クラシック、聴きに行っていました。

毎年、このコンサートを同じお友だちと観に行くのが恒例となっていまして、今年で6年目くらいでしょうか?


こちらのブログでの更新が、少しお久しぶりとなりました。

声のこと、体調不良のことを主にのせているので、声の調子がとても悪かったり、何か強く思ったり考え事があった日には、日記を綴るようにしています。

しばらく空いていたということは、あまり声のことで深くは悩んでいなかったということ。


けれど、今日はお久しぶりに喉の調子が不調すぎましたので、こうして文章をしたためております。


お仕事の時は、今日はあまり声を出していなかったので、不調を感じる程ではなかったのですが、お仕事を終え、コンサート会場へと向かった際に、受付の方と言葉を交わす機会がありました。

その際、声を発した途端に、「あ、声が全然出ない。」、即座に感じました。


受付のかたも、少し、私の声を聞き取りづらそうにしていました。
(顔を近付けたり、耳に装着していたモニターを外していました。)

会場でお友だちと会話をしていてもやはり、誰が聞いても声が出ていないと感じるようで、「今日は喋りづらそうだね…」と。
(お友だちは、私の発声障害のこと知っています^^)


今日は久しぶりに、声を出すのがすごく苦しかったなぁ、、


絞り出して出していました。

喉の絞まりを常に感じながら。



一体、、何故なのでしょうね。


「過緊張性発声障害」、初対面の人であったり苦手な人と話をするときに緊張をして、声が出づらくなってしまう、というのならわかるのですが、私の場合、どちらかと言うと真逆なもので、親しい人、特に「喋りたい!」と思うときこそ、声が全然思うように出てくれません。


これって、緊張と関係あるのでしょうか?、、


声が出なくなって早一年。


まったく良くもならず、改善も出来ず。


心だけが不安に思ったり、頑張ろうと前向きになったり。


“気持ち”が一番に、大事ってことなのでしょうか?



『気の持ちよう』とも言いますが、一度壊れてしまった神経や構築されてしまった自分自身、気持ちだけで解決出来たらどれだけ楽かって、思ってもみてしまいます。



気持ちよりももっと大切なものって、何なのでしょうか。

2016年9月12日月曜日

レコーディングで、ふと。

こんばんは。

先程まで、ボイストレーニングの学校にて、オリジナル曲のレコーディングをしていました。

レコーディング最中、ふと思ったのですが、曲の中でうまく歌えない部分が、何度歌っても思い通りに歌えない。

一度、失敗をしたり、変な歌い方になってしまうと、次歌うときも同じようになってしまう。

『次は良く歌えるかな、失敗しないかな。』と、心配をしたり不安になってしまう。

そうして、どんどん負の底に潜り込んでゆくように、負のループから逃げ出せられない。。


そのようなこと、もしかしたら、、


『昨日、電車で具合悪くなってしまった。今日は大丈夫かな、、』の不安にとても似ている、と。

何となく、繋がりがあるように感じました。


―――


それとは別に、今日は、自分の“良い歌いかた(歌うときでの、声の出し方)”を習得したようでした。


普段言葉を口にしている以上に、自分の口から発せられる“声、音”に意識をする。


何だか、とてもいい学びだったように感じます。

今日の学びが、今後の音楽活動にも、普段のお喋りにも良く動いてくれますように。。



あ、



レコーディングもそこそこ、うまくゆきましたよ(^^)



何とか、今まで行き詰まっていたものから、大きく脱せられたようでした(^^)v


また次回も、頑張ろうと思います。♪

2016年9月7日水曜日

リハビリ4日目。そして。


こんばんは。

先週、ボイスクリニックにて、4回目のリハビリ日でした。

まず、声を出すことに関してあまり何も気にしないで声を出そうと心掛けをし、実際声を出した後に、声が出なかったことに関して悲しい思いや悔しい思いを、あまり感じなくなったことを、先生にお伝えをしたら、「それはとてもいいことだね^^」と。

「このままでいきましょう。」と。


「声が出ないことに、慣れてもきたのかもしれないね。」とも。



思えば、声が思うように出なくなって一年経ちました。


そんな声と、そんな自分と、長く付き合っているうちに、徐々に慣れてきたのかも、しれないですね。



それともう一つ、リハビリでお話してもらったことは、『自分で思っていることを口に出しきれないこと』について。


もしこの言葉を言って、「その人が傷付いてしまったらどうしよう。」「嫌な気分にさせてしまったらどうしよう。」
相手の反応を見て、「自分が傷付いたらどうしよう。」


それだったら、「言わずに自分のなかで、溜め込んでゆけばいいや。」


そんな日々の溜め込みから、もしかしたら喉の詰まりも生まれてきているのかも、しれません。


「相手がどう思うか、決めてしまっているのは全部“自分”だよ。」と、先生に言われました。

「言いたいことをあなたが言ったとしても、その人にとっては、特に何とも思わないことかもしれない。」


「物事の見方は何パターンもあるからね。」と。



確かに、そうかもしれないです。

自分が、『きっとこうだろう、こう思うだろう。』と決めつけをしてしまって、今まではその先(言葉を口にするこも)まで進めなかった。

その先の結果は、伝えてみないとどんな反応が返ってくるか分からない。


もし、言葉を伝えて相手に不快感を与えてしまっても、「やはり、そうだった。」という《結果》が分かる。


《結果》が分かる、ということが、少なからず、自分の憶測だけで行動を抑制してしまうことよりも、「行動の幅が広がる、視点が広がる」ということでした。


なので、少しずつでも、“思っていることを口にしてみること。”


これが、次のリハビリの新しい《ステップ》です。



ここに関しては、今まで培ってきた自分を壊してゆく作業のようなものなので、なかなか変えてゆくことは簡単にはいかなそうですが、良き方向へと向かわせてゆくためにも、頑張ってゆきたいですね。



―――


話はそれますが、一昨日の朝、再び電車のなかで具合が悪くなりました。


朝起きたときから、少し調子がおかしいかなと思っていましたが、その調子に引っ張られないよう、意識をそらそうと心掛けましたが、駄目でした。


満員電車のなか、立っていられなくなり、しゃがみこんでしまいました。

意識がなくなって、倒れるよりは良いだろうと。


周囲のひとは、私の様子など気にもせずに立ったままでした。


“冷たいな。”なんて、そんな周囲の態度に打ちのめされ。



具合の悪くなるときは、立っているよりも座っているよりも、膝を抱えるようにうずくまっているのが、一番楽な姿勢。


たった一駅も我慢できずしゃがみ込みましたが、お陰で、数分かけて、少しは落ち着きました。


めまい、胸の不快感、喉の息苦しさ、発汗、大きな不安。


何度も何度も、電車のなかや外出先で具合の悪くなるたびに、こんな辛い思いはもう二度と嫌だと、強く願うのですが、どうやら近くは、叶うことないみたいです。


ここ一、二年、悪化してゆくばかりの気がします。


お知り合いのかたから、アドバイスいただいて、具合が悪くなったときは“呼吸”に集中をしようと、何度も心がけをしてみても、あまりに自分のことをコントロール出来ずになってしまっていて、まったく上手に呼吸が出来ず、具合が100%の確率で悪くなってしまう自分には、本当嫌気がさします。


一昨日は、電車のあとも遅れてはならないと必死にお仕事場へと向かい、お仕事をしていましたが、気持ちが全然落ち着かず、吐き気や呼吸の乱れ、息苦しさがずっと苦しく続いていて、午前中、まるで、自分が自分でないようでした。

あまりに、この地に立っていることに必死でした。


電車で具合が悪くなったとしても、大体はお仕事場着いてしまえば、あとは段々と落ち着いて回復してゆくことが当たり前でしたが、今回はそうならずにいて、「どうしたのだろう。」と大きく疑問を抱きました。


単に体調が悪すぎたためか、具合の悪くなることに関して、悪化の状態が増してきてしまっているのか。。


リハビリ日のときに、『この間、北海道に旅行へ出掛ける際、何度も移動中に具合を悪くし、これまでにも電車などで倒れそうになっている。』、ということを先生に相談してみたところ、
“パニック障害”のようなものもあるのかもしれないね、と。


声のことも、「少なからず、関係しているかもしれないね。」と、おっしゃっていました。

私も、そんな気がします。



「良かったら、提携している《心療内科》も紹介出来るから。」とのこと、まさにその何日かあとに、今回のように電車で具合が悪くなってしまい、自分自身のコントロールが段々と効かなくなっているのではないかと不安に思ったので、今度、“紹介状”を出してもらおうかなと思います。


さすがに、このままでは本当に、人のいるなかでは生活出来なくなってしまうと、大きな不安にかられました。



なかなか、難しいものですね。

人のいるなかで、生活してゆくこと。


――――

自分と上手く、関わってゆくこと。

2016年8月26日金曜日

見たものそのまま。


こんばんは。

北海道最終日の今日、外は少し雨模様。

ようやく“北海道”と感じられるような涼しさを肌に感じ、シンとしたその空気のなぞりが、とても心地よい。


外にお出かけ、お花たちを見た。



生きる姿、







流れる姿、







枯れの交じる姿、






下を向く姿、






沈む姿、




どんな姿もなんだか、素晴らしく美しいなと思った。



どの姿であれ、見てくれる人がいれば、それで良いのではないか。


過去に育った環境も、今抱く悩みも、これから過ごしたい未来も、どれも私ならではだ。



迎えられる全てを、肌に感じパッティングするように、心に吸収し深呼吸をしながら、私の道を、歩く姿を見ながら、進んでゆきたいな。

2016年8月23日火曜日

北海道に来ています。(^^)






こんばんは。

今私は、北海道へと来ています。

父方の実家、祖母のお家です(^.^)


昨日~今日にかけての台風で、飛行機が無事に飛んでくれるか心配だったのですが、何とか予定通りに出航してくれました。


4泊5日。

少し長めにお仕事のお休みを頂きました。

“北海道”という普段の生活から離れた地と、異なった空気、景色、時間の過ごし方で、良いものが吸収出来るといいなと思い。


近頃、物事の捉え方、考え方、呼吸に対しての意識が良き方向へと向かっていっていると変化を感じていたのですが、今朝、成田空港へと向かう電車のなか、久しぶりの具合の悪化。


始発の電車に乗って空港へと向かう予定だったので、4時前という、早めの起床。

そのこともあってか、起きた瞬間に、「あ、なんか気持ち悪いな。」と。

嫌な予感でした。


その嫌な予感はそのまま嫌なものの正体へと姿を変えてゆき、電車のなかで吐き気を感じ。

それでも、この電車で向かわなければ飛行機に乗られない。

そのプレッシャーが更に追いうちをかけるように、体調と意識を平然と保っていられず。

近頃の自分は、意識に対して変わったものが大きくあると実感していたので、『大丈夫大丈夫。』と思えば落ち着くかなと信じていたけれど、全くもって別でした。

具合の悪さには、勝てないものでしょうか。


冷や汗?脂汗?が溢れてきてひたすら止まらず、車内の冷房も効きすぎていて、もとから冷房に弱い私は、更にマイナスの要素を受け取り、そして、座席に座っていられているのだから、せめて目を瞑って眠っていられればいいものの、あまりに必死の状態で、一秒足りともじっとしていることが出来ず。

普段、通勤途中で具合が悪くなったときは、最悪な場合、お仕事遅れて到着させてもらうということも出来るので、その安心感もあってなのか、電車を降りてしまうのですが、さすがに今日は飛行機なので、遅れてゆけないと、必死に具合の悪い自分を「大丈夫大丈夫!」と、押さえ込んでいました。


こんなに辛いことないですね、具合の悪さに関して。


毎回毎回こうして、倒れる寸前にまで具合が悪くなり、その度に「こんな辛い思いは、二度とご免だ。」と思うのですが、今日はそれが北海道到着までの午前中だけで、3回もありました。

もう具合の悪さと闘っているときは、生きている次元が異なっているような、そんな感覚です。


いっそ、気を失ってくれた方がよっぽど楽なのに。


始発に乗った電車のなか、そして、乗り換えた電車のなか。

きっと、限界を超えてしまったのでしょう。
身体が必死に押さえつける気持ちを突き破り、無理だと思い、空港まであと一駅ってところで、電車を降りてしまいました。

具合が悪いときは、たったのあと《10分》さえも、地獄の時間なのです。



そして、気づいていました、具合が悪いとき、喉の筋肉が固まっていて、全然息を吸いきれていないこと。


苦しい苦しいと、ここを戻さないと具合も戻らないとわかっているのに、制御不能。

段々と悪くなっていってしまうこと、何回も、痛いほどに経験しているのに。



もはや、自分の身体では、ないのです。


何とか落ち着いて、電車に飛び乗り、ギリギリ空港に到着し、もう大丈夫と飛行機乗って眠りに就きました。

ふとした瞬間、目が覚め、そうしたらなんと、また「気持ちが悪い。」という悪い思いが襲ってくる。

狭い空間で、自分の唯一具合の悪いときに落ち着ける、《前屈み》の姿勢がとられない。。


「周りに人がいる。」

「動けない。」

「気持ちが悪いけれど、ここではだめ、堪えなければならない。。」



辛すぎました。


さすがに3回も、一日のうちでピンチの時を迎えるだなんて、思ってもいませんでした。



その後は、父と合流もし、知っている人がいるという安心感と、ここからは電車という少し空気の吸える空間が広い場所ということもあってか、段々と落ち着いてゆきました。



ふぅ。



やっと、変われたのかな、自分はと思い始めたところで、一気に振り出しに戻されてしまったような感覚。


なかなか簡単には、いかないものですね。






↑夕方、祖母のお家からお散歩した時の写真。



変わらずとも、変わろうと願えば、進めば、少しずつの角度でも、前を向いてゆけるように、なるのでしょうか。


陽の光りが射す良き方向を、今後しっかり、見つけられますように。