2017年11月9日木曜日

人との接点?

おはようございます。

少しご無沙汰ぶりの、更新となってしまいました。

この更新していなかった期間、喉の調子はあまり変わりなく、パニックのほうは、女性専用車両に頼ってばかりではありますが、そのお陰もあり、以降起きていません。

(ただ一度、先週くらいでしょうか?
女性専用車両に乗っているときでも、すごく満員の状態で、ぎゅうぎゅうに押されるくらいきついときに、パニックになることをふと考えてしまい、本当にパニックになりそうになったことがありました。
一度、"パニックになりそう"と思ってからは、100%の確率で、毎回パニックになってしまっていたのですが、今回は初めて、発作を回避させることが出来ました。
恐らく、周りが⦅女性⦆ということが、安心させる一つの要素でもあったのでしょうか?)

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さて、今日書きたいのは、昨日のことです。

昨日はお仕事で、ドアを押さえながら通行人のかたがたに声を掛けて、ドアのほうに通行を促す、という役割をする作業がありました。


もちろん、声を発する作業。


「こちらをお通り下さい。」


何故なのでしょう、ただ、声をかけてアナウンスをすれば良いだけのことなのに、"お声がけをしなくてはならない"という、プレッシャーなのでしょうか。


段々と喉の筋肉が固まってきて、緊張状態が増し、声も詰まってきて、出づらくなりました。


段々と、声を出すことに苦痛を感じました。

声を出すこと?


というより、


"アナウンスをしなければならない(=人と接しなければならない)"ということに、
苦痛を感じていたのかもしれません。



声が詰まったり大きく出なかったので、何人かのかたの耳に、届かないことがあり、悲しくもなりました。

けれど、ドアを押さえている私に、「すみませーん。」や「ありがとうございます。」の言葉は、嬉しいなと思ったりもしました。


人と接することを避けてばかりいた私ですが、今勤めている清掃のお仕事の前は、接客のお仕事をしていたので、人と接することの楽しさということも、思い出させてくれる出来事でした。


遠く、忘れていた感覚。


その分、笑顔だったり、言葉遣いであったり、相手に向けるパワーがとても必要で、わたしにはとても負荷のかかることであったりもするのですが、それもとても重要なことだな、と。


避けてばかりいては、心が触れられる嬉しさを忘れて、ただ臆病の"固まり"となり、抜け出せられなくなってしまう。


自分から、固まりをほぐす努力、ほぐそうとする努力も必要なのだ、と。


発声障害を患って数年、これからの私は、どう進んでゆくのでしょうか。


いつ、声が復活するのか、果たして復活することが出来るのか、まだまだ気長に気楽に、俯瞰的に見るくらいで、自分を回復させてゆけたらと、思います。


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